元ネタ www.japantoday.com/左: 僕と日本が震えた日
右: 東日本大震災に遭って知った、日本人に生まれて良かった『僕と日本が震えた日』の作者は鈴木みそさん。
この人の漫画は業界の裏話を鋭くもコメディータッチで描く作風
というイメージが自分にはあったので、東日本大震災のドキュメン
タリーを描くと知り一体どんな作品になるのかと気になっていた。
そして実際に読んでみると、想像してたものとは違った。
てっきり東北の被災地へ取材に行くものとばかり思ってたのだけど、
最初の取材地はなんと浦安。大きい被害だけが震災じゃない、等身大の被災地を紹介しようと
いうことで、こうなりました。
えぇぇ?と思ったけど、そこはさすがのみそ先生、読んでみたら
液状化の話やネズミ―ランドの話など興味深くて面白かった。
その後も、出版業界や筑波の研究所の被災など他のメディアが
スポットを当てない場所を取材していて、へぇ~ボタン連発。
ネットでも掲載されていた「正しい放射線の測り方」もほんと万人
に読んでもらいたい内容でしたよ。
東北でなくても東日本大震災の良作ドキュメントはできるもの
だなぁとすっかり感心させられました・・・・・・・・が!!!!!
ラスト30ページになって東北の被災地へ向かう話を掲載。
しかもこれが、特に目的の無い車で行けるところまで見に行きま
しょう的な旅なんですよ。ぶっちゃけ、単行本を出すにあたって
東北の話が無いと締まらないからやりましたという感じがしたなぁ。
去年の11月時点の現地の様子とか確かにオォゥ・・・と唸らされる
ものがあったのだけど、少し釈然としないものが。
とまあ、最後に一つ不満点を挙げましたけど、
総じて良作デス!
これで終わらずに、もっとシリーズ化して欲しい。
そんな訳で、日本に住んでる人すべてにお薦めします。
それでは本題へ行きます。
お題は記事タイトルのまんま。
1年前のあの日に何をしていたのかを問うスレッド。
では、興味のある方は続きをどうぞ。:)
3.11 - WHAT WERE YOU DOING THAT DAY?
3.11、君はあの日なにをしていた?Mar. 01, 2012
3月11日の大災害からほぼ1年が経過した。
地震と津波、そしてそれにより引き起こされた核の危機は、何百万の人々に深刻な影響を及ぼした。Japan Today の姉妹サイトである GaijinPot では、閲覧者たちから3.11の記憶とあの震災についてどう思っているかという意見を募った。それらは、
コチラで見ることができる。
我々も、あなたがた読者とあの日の記憶を分かち合いたいと思う。
あの大地震が起こった時、あなたは何をしていたのだろうか?
あなたの人生にどんな影響を与えたのだろうか?
あなたがたのレスポンスの一部は日本語に翻訳して日本のメディアへ配信されるかもしれない。望むのであれば、あなたの国籍、性別、職業、居住地を最初に書いても構わない。このスレッドは、読者が自分の体験を語るためだけのものだということに留意して欲しい。それ以外のコメントはご容赦を。
☆ この記事に寄せられたコメントを一部抜粋 ☆
oginome俺は普通に大学へ行ってたんだよなぁ。
NeoJamalあの日の夜、俺は甲府の親戚の所へ逃げ出したんだ・・・
RPマーケティングスペシャリスト、英国人、男性、東京在住。
あの地震が最初に襲ってきた時、俺はニュースウェブサイトの編集者
として仕事をしていたんだ。
あの日は、もう少しでいつもと変わらない大したニュースのない一日
になるところだったのに、オフィスが揺れ出して、さらに大きく揺れて、
そのままずっと揺れ続けたんだ。
これはさすがに外へ出ないとまずいとみんな思った。
ただ、この東京で感じている大地震について一文の速報を書くだけの
時間的な余裕はあったけどね。
外に出てみると、目にした光景がちょっとシュールだった。
さほど遠くない場所に、電通ビルなどの巨大な建物が激しく揺れている
のが見えたんだよ。別の方向では、お台場から煙が上がっていた。
他の人たちは職場から列をなして出てきて、安全地帯である近くの公園
に集まっていた。 一体何が起こっているのか誰も明確には分からない
というのに、それでも人々は皆
ハツラツとしていたね。
モバイルネットワークは既に沈黙し、ビルはずっと揺れ続けていた。
その夜、東京の他の人たちも恐らくそうしたように、俺は家まで歩いて
帰った。霞が関から銀座を抜けて九段下、そしてついに早稲田へ。
通りはどこも混雑してたよ。
しかしまた、俺の消えることのないその遠足の思い出によれば、元気に
フレンドリーにそして必ず家に帰るという静かな決意を道行く者全てが
共有していたように思う。
家に到着した俺は、すぐさま仕事を再開した。
マイワイフは職場から離れることが出来ずにいたので、その夜は日本と
海外のテレビ、ネットで報じられている様々なニュースをフォローしな
がら過ごしたよ。
zichi俺は神戸市にある自分のアートスタジオに居た。
何も感じなかったから、俺たちは地震のことを全く知らなかったんだ。
その内に、地震を伝える緊急メッセージメールが届いた。
それで急いでテレビをつけたんだ。
その時はまだ津波は来てなかった。
その後何週間も、毎日24時間テレビをつけっ放しにしてた。
目の前のテレビに映る恐ろしい光景に俺は参ってた。
1995年の神戸地震 [ Kobe earthquake ] の時は、インターネット黎明期
だったが、昨年の3月においては最新のインターネットが最大限に活用
されていた。 正に大災害を目の当たりにしてるようだったよ。
人々が体験した痛みの全てに、俺の心は締め付けられ目には涙が溢れて
止まらなかった。
Rogerrabbitt俺は静岡市にある学校にいたよ。
何もかもが衝撃を受けた時、子供たちはちょうどバスに乗って帰った
ところだった。 俺たちは皆、即座にこれは一大事だと悟ったよ・・・・
俺たちの学校があんなに揺れたことなんてかつてなかったから。
テレビでは地震警報が表示され津波が何もかもを飲み込んで行くのを
俺たちは絶望しながら観ていた・・・・・・
あの時味わった完全な無力感は本当に凄まじかったよ。
Greapper1俺は島根県で働いていたよ。
俺たちが聞いた唯一の知らせはマグニチュード7.0の大地震が起きた
ということだけ。 家に帰ってテレビをつけたら夕方5時のニュースで
マグニチュード8.0に上がっていて(後に9.0となる)、巨大な津波が
東海岸の一部を洗い流していたんだ。
その夜は、東京と茨城にいる友人たちが無事かどうか確認する為に
電波よ繋がれと携帯でトライし続けながら過ごしたよ。
NetNinjaあの時、俺は家でスタークラフト2(ネトゲ)をプレイしてた。
俺のチームは勝利目前だったんだよね。
そしたら、あの地震が始まったんだ。
だから、直ぐに俺はゲームのチャットに書き込んだよ。
俺ちゃん 「うぉおおお、地震キター! これ凄くデカイ!
いやマジで巨大地震だこれ。俺・・・今日で死ぬかも・・・・」
チームメイト 「お前が召される前にアイテム売ってちゃぶだい」
いや本当の話なんだよこれ。
アイテムは売ってやらなかった。ただゲームから去ったよ。
Gabarrazziマーケティングコミュニケーション・コンサルタント、フィリピン人、
男性、東京在住。
地震が起こった時、俺はジムのプールで泳いでいた。
まるで誰かが漕ぐママチャリの荷台に乗った金魚鉢の中にいる金魚
にでもなったかのようだったよ。
ジムのスタッフはライフガードのように振る舞って笛を鳴らし、ジムを
閉めるからプールから出て帰宅するように言ってきた。
家路については他の人が語ってる通りだったよ。
tkoind2ITシステムスペシャリスト、アメリカ人、男性、東京在住。
東京のオフィス用高層ビルで仕事をしていた。
地震が始まった時、我々は怯えている人に声をかけ、近隣のビルが
揺れているのを目撃した。 それから、避難をしたのだが、一部の者は
現場に残るよう言われ、それに続くショックをビルの中で乗り越えた。
我々は津波のライブ中継を悲しげに観ることになった。
現地で起きていることにただどうすることも出来ないと感じていた。
私は街を抜けて妻の職場へと歩いて(2時間)彼女と合流した。
そこから彼女の両親の所へとまた歩いた(2時間)。
我々は家族と一緒にいれて幸運だったし幸せだった。
あの日のこと、そしてその後に起きたことを私は一生忘れない。
しばらく経った頃、南三陸へボランティア作業に行ったのだが、その
体験が私を永遠に変えた。もう二度とこんなことが起きないよう祈る。
Ranger_Miffy2大学の英語講師だが春休み中のため両国で皿洗いをしてた・・・・・
何だろうこれは・・・・・・「ワ~オ、強い風が窓をガタガタ言わせてる!」
あの地球が重苦しく唸る音は決して忘れることがないだろうね。
全てが揺れ動き、キャビネットや引き出しが開いたり閉じたり・・・
近所の人たちと合流すべく外に出た。
そこではトラブルが多発しており恐怖心に拍車がかかった。
自転車に乗った相撲ガイが隣人たちを落ち着かせようとしていたよ。
Elbuda Mexicano本当に俺があの時に何をしてたのか知りたいのか・・・・・・
仕方ない、じゃあ話すとしよう。
俺は便座に座って用を足していたんだ。
すると、便器の中で小さな津波が起こって俺の尻肉を濡らした。
そしたら、嫁が「揺れてる」とか言ってるのが聞こえてきた。
その揺れが地震だと分かると、嫁は俺たちに逃げるよう叫んだ。
俺は、「もちろん逃げる。だが今は無理だ」と答えた。
パンツを下ろしたままの姿で逃げ出し、まだ途中のモノをぶら下げ
ながら隣人とまみえることなど出来んと。
Foxieあれは良く晴れた午後のこと、私は家で掃除機をかけていたわ。
地震が起きたことを私は気付かなかった。
恐らく、動き回っていたからだと思う。
すると、夫から電話がかかってきて私は立ち止まり、その瞬間だけ
揺れていることに気付いたわ。
夫は私に地震のことを告げ、私はテレビのスイッチをいれた。
その日はもう、ずっと津波が全てを流し去るホラーを観て過ごした。
あの地震は、ここ北海道では明らかにそこまで強いものではなかった。
とはいえ、私の家はとても長い間揺れ続けていたし、余震のお蔭で
その後の数日はフラフラするような感じが残ったわ。
地震の数時間後、北海道に津波が到達したのだけど、東北よりも遥かに
小さく、2.5mぐらいのものだった。
それでも、海外沿いの一部の住宅には損害が出ていた。
そして多くの船にもね。
CBニュース編集者、オーストラリア人、男性、東京在住。
3月11日の午後遅く、俺はシドニーの空港に居て日本行きの飛行機を
待っていた。 すると、地震が発生したので成田空港が運行を停止した
というアナウンスが流れたんだ。
そんな訳で、俺たちは空港で足止めを食い動けなかった。
翌朝になり、俺たちは日本へと旅立った。
あの大災害のスケールが知るところとなったので、機内ではずっと機長
が厳しいニュースを乗客に伝えていたよ。
機長は、成田空港がまた運行停止になる可能性もあるので、別の空港に
着陸せざるを得ないかもしれないとすら言ってたな。
俺たちは夕方6時にやっと成田空港へ到着した。
空港が再び運行停止する前に着陸を許された最後の便だったんだ。
それからがまた、東京へ辿り着くことへのチャレンジだった。
高速道路は閉鎖されていて、迂回しながら東京へ向かう通勤電車だけ
が動いていた。 お蔭で4時間かけてやっとこさ家に帰り着いた。
ところがどっこい、そこで残念なお知らせが。
アパートのドアが開かない!!地震がドアを激しく揺らして、鍵が勝手にかかっちゃったんだな。
仕方ないから、錠前屋に電話したさ。
土曜の夜の10時にだよ!
やってきた錠前屋は、今日はもの凄く忙しいと言ってた な。
部屋の中は、まるで泥棒に荒らされたかのような有り様だった。
本やCDなんかが床中に散らばってたよ。
その後の数日間、東京はシュールな状態だった。
俺は毎日職場に行っていたが、最大の懸念は核危機だったんだ。
俺たちはあまりにも多くの矛盾する情報に晒されていた。
海外のメディアが奇怪で扇情的な報道を続けるなか、日本政府は
俺たちに十分な情報を与えようとはしなかった。
悲しいことに、俺の友人の多くが日本を去る決断をした。
誤った情報を基に(原子雲が東京にやって来るなんてものあった)
人生を変える決断をしてしまったんだ。
今は、物事は概ねノーマルな状態に戻ったと感じてる。
少なくとも俺はそう思ってるよ。
そうそう、当時は本当に情報が錯綜してたよね。
そして確かに海外のメディアは酷いのが多かった。
当ブログでも、ダニー・チュウ氏がまとめてくれた記事を取り上げ
させてもらったことがあります。
◆ 東北関東大震災を報じる海外メディアが暴走してる件
* 「死の帝国」 とデンマーク新聞。
* 「日本人は絶滅するのか」や「東日本では生息不能」とドイツ新聞。
* 「原子パニック」の報道が殆ど。
* 「東京で餓え死している」とイギリス新聞。
* 「東京は誰にも残っていないゴーストタウン(廃墟)」になっているとイギリス新聞。
* 花粉時期でマスクをしている人の写真が多く海外メディアに出ている。「放射線物質対策」だと報道している。
改めて読むと本当に酷くて茫然。( ゚д゚)ポカーンタブロイド紙だけじゃなく、主要メディアもたいがいだったよなぁ。
だけど、上の外人さんも言ってるように、日本政府がキッチリとした
情報公開・アナウンスをしなかったことも混乱に拍車をかけてたよね。
ダニエル・カールさんの方がよっぽど
日本の為に発言してたわー。
本当にありがとうございました。<(_ _)>
さて、本題の方ですが、できれば東北に居た方の体験を聞きたかった
のですが、ちょっと見当たりませんでした。
しかし、関東の方でもかなり大きな揺れがあったんですよね。
交通網が機能しなくなって歩いて帰ったという話は、当時よく見聞き
した記憶があります。 その帰宅途中や避難先の公園などで日本人たち
がパニックにならずに、むしろ落ち着いてたり快活だったことで外国人
たちも心強かったんじゃないでしょうか。
元記事で言及されている GaijinPot が募集した3.11体験談がかなり充実
してましたよ。東北で仕事をしていた外国人たちからの話もありました。
ぜひ一読してみて下さい。
コチラからどうぞ。
個人的には、もう一年が経ったのかという感じです。
今回の震災に関する記事を何度か書いてきました。
◆
東北・関東大地震(M8.8)の海外反応◆
「なぜ日本で略奪が起きないのか?」東日本大震災の海外反応◆
福島原発をうんち・おならでたとえた動画の海外反応◆
アメリカ人の38%が東日本大震災を神のお告げと信じてるらしい◆
復興支援を日本人に感謝され戸惑うアメリカ人◆
被災地の現金や金庫が警察に届けられてることに海外が驚く世界中から励ましの声や義援金が届いたり、被災地での日本人の民度
が称賛されたり、原発の危険性やエネルギー問題を考えされたり、
外国人の宗教観に唖然とさせられたりなどなど、本当にいろいろと
思うところがありました。
それで、今感じてることはいうと根本的なところはまだ何も変わって
ないんじゃないかなと。 被災地の復興は進んでると思うのだけど、
政府の対応策や原発問題とかは何かしらの進歩・前進ってあったん
ですかね? 何だかうやむやなままのような気がする・・・・・
そういう意味で(何も解決されず)もう一年が経ったのかという感じ。
ホント管理人が知らないだけで凄い進展・改良があったと信じたい。
そしてまた日本の何処かで大震災が発生した時には、被災地の人たち
に頑張れと励ますのではなく、「頑張らなくていいから休め」と言って
あげられるようなシステムを・・・・・・
最後になりましたが、もう一度被災された方々に対し、お悔やみと
お見舞いを申し上げます。また、日本に対し有形無形の援助や励まし・
祈りの声を送ってくれた世界中の人たちへ深く感謝します。<(_ _)>



←いつも応援ありがとう!
トモダチ作戦にも感謝!!しかし、当初は不自然なほど米軍や自衛隊の活躍が報道されて
なかったような気がする。今でも十分とは思ってないけど。
手回しだけじゃなく
ソーラー充電もか。この発想は無かった。
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