原曲: CHAGE and ASKA / 『SAY YES』◆ シカゴ (バンド)
シカゴ(Chicago)は、アメリカのロックバンド。ロックにブラスを取り入れた形式のバンドとして先駆的な存在であり、同じ ジェイムズ・ウィリアム・ガルシオがプロデュースしたバンド、ブラッド・スウェット&ティアーズやバッキンガムズなどと共に“ブラス・ロック”と呼ばれた。
シカゴ出身だが、プロ・デビュー後の活動拠点はロサンゼルスである。
アルバム「16」より、元サンズ・オブ・チャンプリンのビル・チャンプリン(Vo,Key,G)が参加する。
「17」を最後に、当時のシカゴのヒット曲でヴォーカルを担当していたピーター・セテラ(Vo,b)がソロ活動に専念するため、脱退。代わって「18」より元キーンのジェイソン・シェフ(Vo,b)が加入。
原曲: 小田和正 / 『ラブストーリーは突然に』◆ ボビー・キンボール
ボビー・キンボール(1947年3月29日 - 、本名:Robert Troy Kimball ロバート・トロイ・キンボール)は、アメリカ合衆国のシンガー。ロックバンドTOTOの歴代シンガーの中でも最もよく知られている。
1977年、キンボールはルイジアナを去り、ロサンゼルスに移り住んだ。そこで彼は5人のセッションミュージシャンに加わると共に6人でTOTOを結成した。彼はバンドへのオーディションソングとして自身で書いた"You are the Flower"[2]を提供した。その曲は彼らのデビューアルバム『TOTO(邦題:宇宙の騎士)』にも収録されている。
広く知れ渡っている風評として、本名の苗字が実はトトース(Toteaux)であり、バンド名TOTOの由来がそこから来ている、というものがある。この風評は実際はTOTOの初代ベーシストであるデヴィット・ハンゲイトによるジョークである[3]。このジョークは、一般にTOTOの由来としていつの間にか真実味を帯びてしまい、30年近く経過した現在ですら信じる者が多い結果となってしまった。なお、本名の苗字は芸名と同じキンボールである。
TOTOでは4枚のスタジオ・オリジナル・アルバムに参加。1982年にグラミー賞を獲得した『TOTO IV(邦題:聖なる剣)』に引き続く1984年の5つめのアルバム『Isolation(邦題:アイソレーション)』制作中にドラッグと私的な問題が他のメンバー間で衝突を引き起こし、TOTOから脱退した[4]。制作中にはメンバーだったためか、IsolationにはLionなど彼のクレジットが記載された楽曲も存在している。
原曲: サザンオールスターズ / 『いとしのエリー』◆ レイ・チャールズ
レイ・チャールズ・ロビンソン(Ray Charles Robinson, 1930年9月23日 - 2004年6月10日)はアメリカ合衆国・ジョージア州出身のR&B歌手でピアニスト。
盲目というハンディを背負いながらも、リズム・アンド・ブルースや、ゴスペル/黒人霊歌やジャズなど、黒人である自らのルーツを遡っていくような音楽活動の中で、自分の魂を歌うという「ソウルミュージック」の形を自らで実証し、「ソウルの神様」と呼ばれるほど、その方面でのカリスマとなった。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第2位。
原曲: 竹内まりや / 『シングルアゲイン』◆ フィービ・スノウ
フィービ・スノウ(Phoebe Snow、本名フィービ・アン・ローブ、1950年7月17日 - 2011年4月26日)は、アメリカの歌手・作曲家・ギタリストである。代表作はチャート1位となった1975年のPoetry Man(ポエトリー・マン)。彼女の歌声は、うなるようなブルース調の低音から4オクターブ以上の音域を持っていると、ニューヨーク・タイムズは表現している。
原曲: 竹内まりや / 『駅』◆ リチャード・マークス
リチャード・マークス(Richard Marx、1963年9月16日 - )は、アメリカのシンガーソングライター。作曲家の父、ディック・マークスとその妻で歌手のルース・マークスの間に生まれ、10代のうちからライオネル・リッチーらに曲を提供していた。1987年、セルフ・タイトル・アルバム「Richard Marx/リチャード・マークス」でデビュー。ファースト・シングルとなった「Don't Mean Nothing」がいきなり全米チャートの3位に入るヒットとなり、大きな注目を集める。その後、シングルカットされた「Should've Known Better」「Endless Summer Nights」も立て続けにチャートインさせ、4枚目の「Hold On to the Nights」で遂に全米ナンバーワン(2週連続)を獲得した。これで完全にスターダムに乗り、セカンド・アルバム「Repeat Offender」からは、「Satisfied(2週連続)」「Right Here Waiting(4週連続)」と前作を上回るビッグヒットを飛ばした。「Right Here Waiting」は当時、恋人だった妻シンシア・ローズへのラブレターに曲をつけたもので、自身最大のヒット曲となったことを契機に結婚した。シンシア・ローズはポップグループ、アニモーション(en)のメンバーであり、女優。映画「ダーティ・ダンシング」などに出演している。 初来日公演は、1988年2月。五反田・簡易保険ホールなどを回った。
原曲: 荒井由実 / 『卒業写真』◆ A.S.A.P.
A.S.A.P.(エーエスエーピー)とは、1990年代に活躍したアメリカ合衆国出身の女性コーラス・グループ。グループ名は「As Soon As Possible」の略。日本コロムビアより松任谷由実のカバー曲ばかりを集めた3枚のアルバムとベスト1枚を発売し人気を不動のものとした後、他の邦楽のカバーやオリジナル曲を中心にアルバムを発表し、1996年までに9枚のアルバムを発表している。今は全て廃盤となっているが、1996年発売の「Lovers Only」以外は日本コロムビアのホームページ上より<オンデマンドCD>として購入出来る。又、未だ衰えぬ人気により2008年3月に18曲入りベスト盤が発売されており、こちらは店頭での購入も可能となっている。
原曲: 荒井由実 / 『あの日にかえりたい』◆ マイケル・フランクス
マイケル・フランクス(Michael Franks、1944年9月18日 - )は、アメリカのミュージシャン。AOR界を代表するヴォーカリストの一人。
独特の囁くようなヴォーカルスタイルと、ジャジーで都会的な音楽性は高く評価されている。代表曲の「Antonio's Song(アントニオの歌)」は、ボサノヴァの曲として日本でも知名度が高い。デビュー当時からジャズ・フュージョン・ソウル界からの人気ミュージシャンを起用して楽曲を製作し、浮き沈みの激しいAOR界において、現在まで一貫した音楽性でコンスタントに作品を発表し続けている稀有なアーティストである。
原曲: 矢井田瞳 / 『I'm here saying nothing』◆ メイヤ
メイヤ(Meja、1969年2月12日 - )は、スウェーデン・ストックホルム出身の歌手。
1993年、ダンスミュージックグループ「レガシー・オブ・サウンド」のヴォーカルとしてデビュー。1996年にアルバム「Meja」でソロデビューし、収録曲「How Crazy Are You?」が日本のFMラジオ局でヘヴィー・ローテーションされ、大ヒットした。他の代表曲に「I'm Missing You」「All 'bout the Money」、リッキー・マーティンとデュエットした「Private Emotion」などがある。
1998年6月12日にはテレビ朝日「ミュージックステーション」に出演し、『All 'bout the money』を披露した。その他、日本テレビ「THE夜もヒッパレ」にもたびたび出演している。
原曲: YMO / 『ビハインド・ザ・マスク』◆ エリック・クラプトン
エリック・パトリック・クラプトン(Eric Patrick Clapton, CBE、1945年3月30日 - )はイギリスのミュージシャン、ギタリスト。
1960年代からヤードバーズ、クリームなどのバンドでギタリストとして活動。その演奏について、エリック・クラプトンは神だとロンドン市内に落書きされた。「スローハンド」というニックネームで知られる。 ローリング・ストーン誌の2003年8月号のカバーストーリー、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」に於いて第4位。身長177cm。
1970年代には薬物依存症、1980年代にはアルコール依存症・交通事故・胃潰瘍を経験。その挙句に妻パティ・ボイド(親友ジョージ・ハリスンの前妻)を裏切り、1984年にクラプトンはイボンヌ・ケリーと一年に渡って関係を持ち、1985年の1月に彼女との間に娘のルースを密かに産ませた。しかし1986年にはイタリア人女優ローリ・デル・サントとの間に息子まで儲けたことは隠し切れず、この話がパティの耳にも入ったことがきっかけで、夫婦関係が以前にも増して悪化し、1988年に離婚が成立した。1991年3月に息子コナー(4歳)がニューヨークの高層マンション53階の窓から転落死するなど、私生活では波乱万丈そのものであった。
◆ ビハインド・ザ・マスク (曲)
この曲を聞いたアメリカの音楽プロデューサーであるクインシー・ジョーンズが気に入り、マイケル・ジャクソンのアルバム『スリラー』レコーディング時期に、マイケルによる補作詞及びメロディを追加したカバーバージョンを録音した。この件についてはさまざまな人の証言があるが、マイケルの生存中に正式なリリースがされなかったこともあり、情報は錯綜しており、やや整合性を欠いている。既知の情報を以下に列挙する。
● すでにトラックができあがっており、YMO側がトラックの聴視を申し入れたが、マイケル側が拒否した。
● またマイケル側が作曲のクレジットと版権の50%を要求したため、YMO側がこれを拒否した。
● 結局アルバム「スリラー」のコンセプトや他の曲との仕上がりに違いがあり、流れに沿わないなどの理由で、録音したトラックはお蔵入りとなった。
● 後日、坂本と高橋がラジオ番組等で『スリラー』が大ヒットしたため後悔したと語っている。
海外で受け入れられる理由
● 海外ツアーで本曲を演奏すると聴衆が踊り出す現象が起こり、坂本が「この曲だけは現地の聴衆が『ロックンロールだ!』と騒いだ」と何度か語り、本人はいまだだにその理由が明確にわからないと発言している。
● 2011年12月17日、Eテレ「スコラ 坂本龍一 音楽の学校」で放送された「ロックへの道編」(第4回)にて本曲を解析した。
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