元ネタ npr.org
よんてんご司波深雪付 特装版 魔法科高校の優等生 (4)
2014年4月よりTVアニメ化の電撃文庫『魔法科高校の劣等生』。
そのスピンオフコミック『魔法科高校の優等生』第4巻に、妹・深雪のよんてんごフィギュアがついた特装版が登場!
キュートな深雪のよんてんごは魔法科ファン必携のアイテム!
アニメ第一話を観てみたわけだが・・・妹が主人公LOVEなのと高校には優等生と劣等性がいる!
ということしか分からなかったのは管理人のせいだろうか?(笑)
あ、師匠らしき男が変態なのも分かった。
これでは判断のしようがないので視聴継続。あの人がデレるまでは・・・
さて今日のお題は、
野球。
昔から野球は好きだったのだけど、
日本に野球を伝えてくれたアメリカ人のことを調べたことはなかった。
だから、その人の子孫という方がネットにアップしてる記事を読んで
へぇ~そうだったんだと唸らされましたよ。
ちょっと忙しくてやっつけですが、皆さん是非どうぞ。:)
Japanese Baseball Began On My Family's Farm In Maine
日本のベースボールはメイン州にある私の家族の農場から始まったby Theo Balcomb(セオ・バルコム)
March 28, 2014 9:56 AM ET
(ホーレス ・ウィルソンと他の家族たち、1860年代に撮影した思われる肖像写真)
普段の会話にはほとんで出てこない私の家族についての奇妙な物語がある。
私たち自身はその物語について話すことはあまりない。
しかし、よその人にこの話をすると途端にこう言われる。
「どうして今まで教えてくれなったんだ!?」
じゃあ話すわ: 私の大大大叔父は日本に野球を伝えた。数代に渡って私の家族はこの事実を誰も知らなかった。
あれは2000年のこと、メイン州の田舎にあるウチの農場に日本人たちがやって来て、私たちをビックリさせることを告げた。ホーレス ・ウィルソン(私たちがほとんど忘れかけていた男)の遺産を広めるために日本へ招待させて下さいと言われたのよ。
私たちは親族の中でも最年長の者に助力を請わなければならなかった。
家の壁に掛けられている1860年頃の家族写真(記事トップに掲載)の一体誰がホーレスなのかを教えてもらう為だけにね。私たちにはどの男性が彼なのかハッキリしなかった。このヒゲの人? それともヒゲなし?
日本人たちが私たちに教えてくれた叔父の話はこうだった:
彼が農場を出て南北戦争で戦った後、私たちには知る由もない理由で彼は1871年に日本へ旅立った。そして、後の東京大学となる学校で教えていたそうだ。
伝えられるところによれば、彼は学校の休憩時間にベースやバットなどを使い生徒たちにこの遊びを教えていたらしい。それが、日本へのベースボール伝来だったのね。ホーレスはメイン州の実家に時々手紙を送ってるのだけど、野球のことは一言も書いてないんだよ。それどころか日本のことにも全く触れてない。
その代わりに、彼の弟へこの手紙のやりとりを続けるよう訴えてるわ。
「1ヶ月ぶりの君からの非常に嬉しい手紙が届いた。これは本当に私を笑顔にさせてくれたよ」
(弟への手紙に野球のことは一切書かれていない)
これらの手紙に書かれていたことが、私たちがホーレスについて知っていることの全てだった。彼は1877年にアメリカへ帰国し、1927年に死亡するまでサンフランシスコで暮らしていた。佐山和夫という男(野球歴史家)がホーレスの重要な役割を本にして出版していると聞いて私たちは強い衝撃を受けた。
ちなみに、佐山の本をamaoznで探すのなら『Man Wilson Told The baseball In Japan For The First Time』という英訳タイトルで検索するといいわ。
こうしてホーレスが日本に " 野球を伝えた " と私たちが知った頃が、ちょうど日本人プレイヤーたちがアメリカのメジャーリーグへ仲間入りを始めた時期だった。それ以来、多くの日本人プレイヤーがやって来て優れた活躍を見せている。彼らのハイライトシーンは日本のテレビで何度も繰り返し流されてるそうよ。
私たちは日本人の関心にこたえようと考えた。
(中略)
(左端からセオ・バルコム、従姉のローズ・サンボーン、叔母のケイト ・サンボーン、父親のスコット・バルコム。2001年の訪日中の写真)
そんな訳で私たちは行って来た。
当時、私は13歳で父親と従姉と叔母と一緒にね。
この日本行きがどんな旅になるのか私たちは全く知らなかった。
でも、直ぐに気付いたわ。
私たちは最高級の扱いを受けてることに。
運転手に通訳、そして何処へ行くにも付き添い人を付けてくれた。
私はこの旅を通じて日誌を書いていた。
日本に到着した日に書いたものを披露するわね。
「その日の遅く私たちは日本の空港へ到着した。そしてホテルまで電車/地下鉄に乗らなければならなかった。誰もがとてもどぎまぎしていた」
私たちの接待役は私たちを満足させ続けようと一生懸命だったけど、どうも気付いてないみたいだった。私たちはただこの場にいるだけでワクワクしてるってことに。でもその後のことは本当に予想外だった。カメラマンが付いたり、9コースのランチを食べたり、野球協会とミーティングをしたり、そして極めつけは高校野球選手権の観戦といったことで日々が満たされて行くとは。
(セオと彼女の家族が訪れた2001年全国高等学校野球選手権大会の開会式が行われている甲子園球場の写真)
日本中のプレイヤーたちが集うこのトーナメントは、スポーツイベントというよりも聖地巡礼という趣きだった。そして私たちはそこで重要な役目を果たしてきた。まず、参加チームのパレードがあって要人として招待された私たちは、行進してくる全てのチームに手を振って迎えた。それから、最初の大切な一球がヘリコプターからパラシュートで投下された。
従姉のローズと私は全力疾走したわ。
降りてきたボールを拾って始球式をする人、日系アメリカ人の宇宙飛行士へ渡すためにホームプレートを横切ってきた。何千もの日本人の野球ファンが私たち声援を送ってくれた。私たちは新聞に載ったので、人々からサインを求められたり、一緒に写真を撮ってくれと頼まれたりしたわ。
その時の様子を私の日誌から!
「私たちと写真を撮りたいという高校球児たちと出会った。彼らは試合に負けたという割には本当に嬉しそうにしてたわ」
(ホーレス・ウィルソンと彼が子供の頃を過ごしたメイン州の家、ウィルソン農場)
この物語の理論的な結末は、イエス、私たちはやり遂げたということ。
私たちは会った人たちに好印象を与えたに違いありません。
パラシュート・ボールを確りと手渡したし、行儀よく座って写真撮影にもニッコリ笑顔でこたえてきた。後には、ホーレス・ウィルソンが日本の野球殿堂入りを果たしたわ。日本野球連盟のチェアマン(コミッショナー?)から、もの凄く重たい銅の飾り額が送られてきた。私たちはそれを家に飾って畏れ多くも " ホーレス神社 " と呼んでる。
ノー、私たちはホーレス神社参拝の為のチケットは販売しておりません。
ホーレス・ウィルソンお土産も売ってないし、日本野球を生んだウィルソン農場への聖地巡礼も受け付けていません。ごめんね、ホーレス・ウィルソン・バブルヘッド人形もやってないのよ。
これには理由があるの。
そういうことに私たちは慣れてない。
私たちはメイン州の住人。
私たちは農民なの。
私たちが世界の向こう側のスポーツ風景を変えたわけではないのだから。
(後略)
☆ この記事に寄せられたコメントを一部抜粋 ☆
Hawk Springs ワ~オ、この話にはマジでブッ魂消たよ!
rialnerror とてつもない物語だったな。
しかし、アメリカの家族が誰も彼の業績を知らなかったとは驚き。
Abbi Baily 日本へ野球を紹介したのはサムライのトム・クルーズの筈だろ?(皮肉
グレートストーリー、とても面白かったよ。
PrairieTeacher 家族の歴史を辿るのは素晴らしいこと。
私の先祖の一人は第7騎兵連隊のカスター中佐の下で従軍していた。
別の系譜では、「風と共に去りぬ」の作者とも親戚になる。
Nora Alvarado 私は18まで日本で生まれ育ってアメリカへ帰ってきた。
これはなんてワンダホーな話なの!
車の中で読みながら顔がほころんじゃったわ。
trade market ホーレスは日本から帰国してからのアメリカでの人生も50年あったのに
君たちは手紙以外のことは何も知らないってのか?
cubistguy 別に珍しい事じゃないよ。
俺だって曾祖母ちゃんがどんな人生を送ったのか全く知らんし。
GuyWHageホーレスがアメリカへ帰ったとき、どうしてサンフランシスコへ?
その後も教師の仕事をつづけたんだろうか?
彼には家族がいなかったんだろうか?
ネットには何の情報も無くて凄く気になる~
David Joneだが、アブナー・ダブルデイ(Abner Doubleday)が発明する前に
どうやって野球を日本に伝えたというのか? :-)
Hmmm 彼が野球を考案してから32年後のことだよ。
ホーレスが日本へ渡ったのは。
ほわっ、野球を発明したのはアブナー・ダブルデイという何だか
日本の漫画家が外人キャラにとって付けたような名前の人なのか?(マテ
これは裏を取らねばなるまい。
ナショナルリーグの第4代会長であるエイブラハム・G・ミルズが主宰したミルズ委員会は1905年に野球の起源を定めるよう指示された。1907年12月30日のこの委員会による最終報告書では、「今日得られる最良の証拠に拠れば、野球をする最初の計画は1839年にニューヨーク州のクーパーズタウンでアブナー・ダブルデイによって考案された。」と一部分で述べた。

ダブルデイが死んだ時、多くの手紙や文書を残したが、そのどれも野球について一語も触れておらず、野球の進化に貢献した人間であると考えていた兆候も無い。さらに委員会で野球にダブルデイを結びつける主要な証言を行ったのはアブナー・グレイブスであり、その信憑性が疑問視されている。証言から数年後にグレイブスは妻を撃って死に至らしめており、これは心の病だったので、その生涯の残りは触法精神障害者の施設に収容されることになった。[source]
何だか血なまぐさいことになってる・・・
ともかく、アブナー・ダブルデイ氏がベースボールを発明したというのは、
ミルズ委員会による捏造だったことは間違いない模様。
現代の野球に近いルールを作ったのはアレクサンダー・カートライト氏。
1846年6月19日に彼が推し進めた最初のベースボールの試合が開催されていてこの6月19日がベースボール記念日になってるそうな。
(ちなみに、Baseball という英語が最初に使われたのはイギリス。
ルールとかは全く違う遊びだったようだけど)
という訳で、1846年にはベースボールの雛型が誕生してるので、
1871年に来日したホーレスさんが知っていても何の不思議もないと。
その本題のホーレスさんですが、ウィキペディアの記述が寂しい。
ホーレス・ウィルソン(Horace Wilson, 1843年2月10日 - 1927年3月4日)は、アメリカ合衆国メーン州出身で、日本で英語などを教えた教師。
1871年(明治4年)にお雇い外国人として来日し、第一番中学(現在の東京大学)で教鞭をとった。そのときに生徒に野球を教え、その後全国的に広まっていった。
2003年に野球を伝えた功績を称え、「新世紀表彰」として野球殿堂 (日本)入り。[source]
これだけなんです。(ノ∀`)現在の野球の隆盛を思えば、あまりにも埋もれすぎな気がするなぁ。
ただ、元記事にも出てきたように、佐山和夫さんが本にされてますね。
メチャクチャ読みたいのに絶版。orz
最近こんなのばっかりや・・・せめてKindle版プリーズ。
ちなみに、ホーレスさんの英語版wikiも日本語版とほとんど一緒。
アメリカでもほとんど知られてない存在みたいです。これはちょっぴり意外だった。
歴史が浅いだけにこういう功績はことごとく称えて歴史を上積みして行くようなイメージがあったんで、完全スルーされてるとは思わなかったよ。
だけど、今後、日本人メジャーリーガーがさらに増え、さらに活躍するようになったらアメリカでも急に見直されそうな予感がする。
最初に日米両方の殿堂入りを果たすのは、野茂さんでもイチローでもなくホーレス・ウィルソン氏かもしれん。(;^ω^)マタテキトーナコトヲ
元記事を書いたホーレスさんの家系であるセオ(シーオ?)さんが、
甲子園で高校野球の開会式に参加してたのにも驚いた。
2001年の夏といえば、
イチローのメジャー元年で大暴れしてた頃だからそっちに夢中で甲子園の方はノーマークだったのかなぁ。
全く彼女たちのことは記憶になかったよ。
ともかく、セオさんたちが日本旅行を満喫できたみたいで何よりでした。
金閣寺の写真があるってことは観光もされたのでしょう。
いつか、ホーレスさんの功績がアメリカでも再評価されると良いですね。
その時は、ホーレス神社も解禁してあげて下さい。^_^
p.s. 「great-great-great-uncle」って日本語にすると何になるの?
みんな!オラに力をわけてくれ!!
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確かに世界を変えた男かもしれない。今のメジャーリーグの人種構成を見れば。
ヤンキースのリベラが引退した今、背番号42は完全に彼の番号になったね。
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