元ネタ theatlantic.com/
続・終物語 (講談社BOX)
“私、とっても幸せなのに――こんなの、全部嘘だって思ってる”
忍野扇との戦いを終え、直江津高校をとうとう卒業した翌朝。妹達の力を借りずに目覚め、「何者でもなくなった」阿良々木暦が向かいあう、新しい世界とは……?
彼ら彼女らの物語の――続き。これぞ現代の怪異! 怪異! 怪異!
僕達と、育ち続ける物語。
初回出荷限定付録『西尾通信』にて、2014年10月発売の新シリーズ『掟上今日子の備忘録』第一話を特別収録!
本日発売! で、もうレビューが付いてる!そのレビューによれば、ネタバレになるかもだけど、
物語シリーズはまだまだ続くみたいだよ。(゚∀゚)
これで一安心。
少なくともあと数年はあの愉快なキャラ達を楽しめるぞと。
それでは本題へいきます。
お題は、
1950年代の日本の写真集。
150年以上続くアメリカの老舗雑誌『The Atlantic』のウェブ版で
50年代の日本がどのような様子だったのかを39枚の写真で
紹介する記事がアップされていました。
その中には管理人が初めて知った日本の光景もあったので
ちょっと皆さんにも見て欲しくなり取り上げてみました。
では、興味のある方は続きをどうぞ。
Japan in the 1950s
1950年代の日本Mar 12, 2014 | 36
1945年に日本が降伏(WW2の終結)した後、アメリカに先導された連合軍はこの国を占領し急激な変化をもたらした。日本は武装解除され帝国は解体、政府は民主主義へと変わった。そして、経済と教育システムは再編・再建がなされた。長年に渡る復興活動は、広島・長崎を含む何千もの空襲から立ち直るのに必要だったのだ。1950年代までには、旧敵は西側の盟友となった。アメリカ文化は日本の景色の一部となり、日本は消費者機器と電子機器のメーカーとして経済的基盤を見つけはじめていた。
1. 1958年10月30日、着物を着た若い日本人女性がアメリカと日本で大流行していたフラフープに興じる。
2. 1950年4月26日、捕虜となっていた日本兵の帰還を女性たちが出迎える。帰還兵たちは収監中に死亡した戦友の遺灰を抱えている。
3. 1950年3月25日、「アメリカン・フェア」にて。左: 着物を着た3人の日本人女性が自由の女神像の土台に腰を下ろしている。 右: サウスダコタのラシュモア記念公園のレプリカ。米国史を表した展示の一つ。
このフェアは「アメリカの歴史の重要な出来事と科学、産業、農業の発展」を表現している。
4. 1950年9月20日、朝鮮での戦闘任務のために日本の極東空軍基地から飛び立とうとするB-26爆撃機がエンジンの回転速度を上げている。
5. 1949年10月12日、伊勢半島の先端近くにある御木本幸吉の真珠養殖場で育った真珠を日本人女性が慎重に分類している。真珠は色・形・サイズで選り分けられる。
6. 1950年6月5日、とある東京のデパートは新作の水着に人々の関心を集めるためにモデルを使った。雨は好奇心の邪魔にはならず、モデルの女性たちと群衆はガラス越しに見つめ合うというアイデアが気に入ったようだ。
7. 1951年2月19日、大阪の孤児院の食堂、ウルフハウンド(米軍27歩兵連隊)が購入した食料を160人の孤児たちが毎日食べていた。
8. 1951年1月25日、東京芝浦電気で産業訓練の専門家たちは電球マシンが欠陥品の電球を作業員の方へ落とすのを見物している。
9. 1951年10月20日、ボストン・レッドソックスのドム・ディマジオがアメリカオールスター対日本の読売ジャイアンツとの試合でスイングしようとしている。
10. 1951年8月3日、原子爆弾が広島のこの地の真上で爆発した6年後、産業奨励館<注: 原爆ドーム>近くの通りで土産物屋が立っていた。この店は吉川清のもので、彼は原爆により負傷している。
11. 1952年8月27日、東京から大阪へ向かう電車の乗客たちが5分の停車時間の間に教練マスターの指導により3分の柔軟体操を行っている。
この変わったサービスは長旅をする旅行者たちが二つの都市の中間の駅で柔軟体操ができるようにしたものだ。このエクササイズのために教練マスター用のお立ち台と音楽までが用意されていた。
12. 東京のニコンカメラ工場でレンズの検査をしている。
13. 1952年5月1日、東京におけるメーデーの暴動でプロ共産主義者のデモ参加者が日本人の警官に石を投げている。暴徒の波を撃退するために警官は催涙ガスや銃、警棒を使用したので両者に多数の犠牲者がが出た
14. 1952年5月1日、朦朧とする日本人の若者、彼の顔にはあざができ流血に染まっている。彼は東京の皇居近くで暴徒を先導していた。
15. 1953年3月24日、両親たちが日本の舞鶴湾へ降りる準備をする中、子供たちは興安丸のデッキの周りで突進している。第二次世界大戦の終わりから足止めされていた共産中国から帰ってくる送還者たちの最初のグループは、舞鶴の処理センターで手続きを終えてから解放され家路についた。最初の一群は男性・女性・子供たち2000人で北中国から興安丸に乗って帰還した。三輪車は慈善団体から贈られたものである。
16. 1953年6月8日、とある映画スタジオの労働者が戦艦大和の最後の日の物語を描くドキュメンタリー映画で使用する大和の模型を作っている。
17. 1953年6月8日、日本の新東宝映画の特設プールで「戦艦大和」のワンシーンを撮影している。
18. 1953年6月8日、日本の映画会社が戦艦大和の最後の日の物語を撮影中。山場のシーンを撮るためにスタジオのスタッフが模型の大和の砲に弾を込めている。
19. 1954年2月21日、テレビとアメリカのレスリングという新しいもの二つの組合わせは、相当な数の日本人の群集を屋外スクリーンへと連れ出した。日本テレビはアメリカ人レスラーと日本人レスラーの闘いを放送した。群衆たちはまるでリングサイドにいるかのようにヤジを飛ばし拍手をおくり完全に道を塞いでいた。
20. 1954年2月21日 、硫黄島で日本人の作業員たちが砂浜にほぼ完全に埋まっている戦艦の残骸を切断している。9年の不在の後、日本人は硫黄島へ戻ってきた。
サルベージ作業員として。
21. 1954年6月1日、東京の明治公園で行われた早稲田と慶応大学の野球の試合を扇を持った人々が観戦している。左で立ち上がってる人物はアメリカのチアリーダーにあたり、チームカラーに塗った扇を持つ応援者たちを導いている。
22. 1955年3月26日、1万もの閃光電球が東京都心の新たなテレビ局と塔を照らす。世界最大のフラッシュと呼ばれた。
23. 1954年12月17日、45人のカメラマンが東京中心部の首相官邸で新たな内閣の写真を撮影している。
24. 1955年10月20日、新設された自衛隊の部隊の女性たちが北海道での演習の応急手当所に配備された。米軍の機材を供給され使用する日本の軍隊は、戦後初の軍事演習を、仮想敵から日本への侵入を防ぐという想定で米軍の顧問団と共に行った。
25. 1955年8月5日、空から見た東京エリア。現代的な建物が壊滅の傷痕を一掃していた。浜町と深川の間を隅田川が穏やかに流れる。それらの地区を卸売りの住宅と倉庫が埋め尽くしている。
26. 1955年5月9日、10年前の原爆から生き残ったミツコ・クラモト(左)とエミコ・タケモト(右)は、ロングアイランドのミッチェル空軍基地で報道関係者とカメラマンと向き合う。爆発で傷を負った25人の女性たちは、6700マイルのニューヨークへの旅で、形成手術により顔の傷が消えることを期待している。
<補足:
1955年のアメリカのTV番組で日本人原爆被災者がエノラゲイの操縦士と対面させられてた件>
27. 1957年5月1日、イギリスのクリスマス諸島における水素爆弾実験に抗議するため、東京の通りに運ばれた水素爆弾によるきのこ雲の模型。
28. 1957年5月15日、旧敵から同盟国への移行は、陸上自衛隊富士学校の演習中に訓練生たちがGIの装備を身に付けていることでも示されている。アメリカ製の武器を使い、アメリカから供給された戦車に支援された兵士たちは日本の祖国防衛のために訓練に励む。
29. 1957年5月22日、陸上自衛隊国分駐屯地で兵士たちが銃剣術の練習をしている。現代の銃剣術訓練のために、木製ライフルといくつか修正を施したサムライスタイルの防具を用いていた。
30. 1958年5月11日、色彩豊かな法衣を纏った約50名の僧侶が京都の観音菩薩像から行進していく。日本と戦って死んだ4万8000以上の兵士たちに敬意を表した白い大理石の額石が24メートルの像の土台に見ることができる。
31. 1958年8月19日、とある東京のデパートで開催された外宇宙展示に子供たちがぴったり近寄る。彼らはそこで月の表面に着陸したロケットやツキを歩き回る奇妙な生物、月を回る衛星さえも目にしていた。
32. 松竹ダンス一座<松竹歌劇団?>の日本人ダンサーたちが、東京の国際劇場で上演される「夏の踊り」のリハーサルをしている。
33. 1958年2月18日、東京の日劇でエルビス・プレスリーのスタイルの歌手であるミッキー・カーティスが、女性ファンの目の前でギターをかき鳴らし歌っている。
日本の音楽シーンをロカビリーミュージックがゆさぶり、日本はロックンロールが大流行していた。叫び、唸り、拍手をおくる10代の若者たちが劇場に詰めかけた。
34. 1959年、とある東京のデパートの内部、伝統的な木の履物の下駄を履いた男性がリンカーンのポスターを見上げている。
35. 1959年7月7日、スーパーマンの声優トオル・オオヒラは、日本語吹き替えの間、ジョージ・リーヴスを近くで見ている。テレビジョンは一般の日本人から天皇ヒロヒトまで大きな衝撃を与えた。日本のテレビ番組のおよそ99%はアメリカの番組で、その中には昭和天皇が好まれたスーパーマンも含まれている。
36. プッシャーとして雇われた大学生が通勤者たちを車両に押し込む。
37. 1960年1月5日、トミコ・カワバタが彼女の車のシートに座り、ソニーが大量生産するオールトランジスタの新型携帯テレビを称賛している。この携帯テレビ(8インチモニター)はバッテリーで3時間ほど屋外でも稼働でき、家庭用200ボルトでも使用できる。
38. 大戦前にもゴルフを楽しむ日本人はいたが、戦後に国民的ブームがやってきた。これは東京にある3階構造の打ちっ放し練習場である。
39. 走る列車の中から撮影された富士山
☆ この記事に寄せられたコメントを一部抜粋 ☆
● 「戦艦大和」の映画はどこでダウンロードできるんだ?
● ブリリアントな写真だった!この記事は凄く気に入ったよ・・・
● この美しい写真集にピッタリの音楽を捧げよう
● 50年代からちょっと先の曲になるが俺ならこれだね。
● ダメリカが戦後に日本をアメリカナイズした方法を愛せってか。
非資本主義を打ちのめすダメリカが
世界平和のための唯一のマントラだとでも?
現在のウクライナの状況に西側がどんなアプローチを
してるかを思うとウンザリさせられる。
リビアやシリアとかにもな。
● 本当に素晴らしいトピックとバラエティ。
このギャラリーは凄く楽しめたよ。
● 9番目の写真だが、ジョー・ディマジオはヤンキースだぞ。
● その通り。だが彼の弟のドム・ディマジオは生涯
レッドソックスでプレーしたんだよ。
● 10年前に日本が何百万もの中国人を殺したことと
アジアの国々を荒廃させたことには一言も触れないんだな。
● ふぁ~、日本について取り上げるときには必ず
WW2に触れなきゃいけないのかい?
俺は日本人がアメリカについて取り上げるときに
必ずネイティブアメリカンのことを語るとは思えんがな。
● だがこれは50年代の写真なんだから関係あるだろ。
その話題には重要なことだ。
● じゃあ日本だって原爆のことを持ち出すの止めろよ。
● いや、俺は日本へ実際に行ったことがあるが、
俺がその話を振るまで誰一人持ち出さなかったぞ。
● 実は日本に住んでるんだが、原爆のことを話すように
もちかけてくる人は誰もいないんだ。一度たりともない。
だからお前が原爆に触れるなと言う必要なんてない。
日本人は最初からそんなことしないからな。
むしろ西洋文化が大好きだ。イタリアやフランス、
アメリカのファッションや映画、料理とかな。
● 政府の形が民主主義に
戻ったとするのがより正確だね。
1900~30年代の日本は民主主義だったんだから。
● 日本帝国が民主主義だったとはとても思えんがな。(笑)
● この後直ぐ(1960年代)に地球上で最も成功し最も裕福になる非西側国の素晴らしい写真の数々だ。
日本のものを嫌いたいなら嫌えばいいさ。だが、1950年代にこれほど速く再建・復興を果たした彼らの能力がこれまで世界が遭遇したポジティブな変化の最も大きな例の一つだったことは否定しないでやってほしい。
こんな風に思ってくれてる遠くの国の人もいる。
近くの国の人たちは相変わらずだっただけに
本当に救われた気分だったよ。
もう心から大感謝です。<(_ _)>
ドム・ディマジオとジョー・ディマジオは管理人も驚いた。
え、それドムじゃなくてジョーでヤンクスの間違いでしょと。
弟さんがレッドソックスに在籍して日本で巨人と対戦してたとはなぁ・・・
でもこれ、AKI猪瀬さんクラスのトリビアだから仕方ないよね。(笑)
さて、本題の日本の1950年代を切り取った写真コレクションですが、
浜松駅が凄いことになってたんだね。O_Oあのお立ち台には不覚にも噴かされたよ。
そこまでする必要があったんかと。
悔しいぐらい絵的に素晴らし過ぎて嫉妬!ですわ。(笑)
しかし、浜松駅だけどうしてこうなったかというと理由があるんです。
1949年5月20日に東海道本線静岡 - 浜松間の電化が完成すると、浜松駅は電化区間の境界となり、東京方面の電気機関車と名古屋方面の蒸気機関車との付け換えが行われるようになった(戦前では沼津駅でのそれが知られる)。これに伴う長い停車時間は、浜松駅に以下のような「名物」を生むことになった。
乗客の気分転換を目的としたホーム上でのラジオ体操。
日本楽器製造(現・ヤマハ)によるハーモニカの立ち売り「ハモニカ娘」の登場(1951年から)。
1953年7月21日に浜松 - 名古屋間の電化が完成すると機関車交換駅の役割は終わりを告げた。ただし、「ハモニカ娘」はその後も駅の名物として1969年まで営業を続け、乗客に親しまれた。[souce]
へぇ~、蒸気機関車と電気機関車を浜松でつなぎ替えてたんだね。
それに時間がかるせいでお客さんたちが暇を持て余してしまうので
つい乗客へのサービスに力が入り過ぎたわけだ。(笑)
でも、あの雛壇に立つ体操マスターは何者なんだろうか?
写真から窺える表情が何やら憂鬱そうに見えるのが心配だ。
もしかして浜松駅の駅員さんがイヤイヤやってたんんじゃ・・・(^_^;
1959年のスーパーマンの日本語吹替えの写真の説明で、
日本の番組の99%がアメリカが制作したものというのが気になった。
テレビは大戦前から日本にもあったのに、
1959年の時点でこの有り様なのは腑に落ちなかったんだ。
そんなわけで調べてみると、1959年にある事が起こってたんだね。
◇ 1959年
● 1月10日 - NHK教育テレビジョン開局。
● 2月1日 - 日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)開局。
● 日本では教育分野へのテレビ利用が検討され始め、教育局、準教育局として開設される局が多くなる。
● 3月1日 - フジテレビ(略称:CX)開局。
● 前年1958年からこの年にかけて多くの局が開設され、4月10日の皇太子明仁親王(今上天皇)御成婚の中継をきっかけにテレビ受像機が一般に普及し始める。同時期に、JNNを始めとするニュースネットワークが結成される。
● この頃より、東映を除く映画会社が、テレビへの作品販売や所属俳優の出演を拒否したため、代替としてアメリカ製のホームドラマや西部劇などのテレビ映画が大量に輸入され、各局の主力番組として放送された。この状況は1970年頃まで続き、高い人気を得た作品も少なくない。[souce]
なるほどな~。
テレビの登場で映画会社がピンチになったという話は確かによく聞く。
その余波でアメリカの番組が大量に買われて放送されてたのか。
これで一応納得できたよ。
それでも99%という数字はイマイチ信じきれないけどね。
それに、元記事の説明はちょっとミスリードっぽいかと。^^;
あ~、他の写真たちもいろいろ語りたいことがあるのだけど、
時間とスペースの関係でこの辺でまとめさせて頂きます。
今回もまた日本のことを海外に教えられてしまいましたよ。
「岸壁の母」が待ってたのはあの興安丸だと今さらながらに知って
目頭が熱くなったり、1950年代から駅で " プッシャー " のバイトが
あったのかと唸ったり、和服でフラフープに萌えたりしました。(え
以前、昭和天皇を記事にさせて頂いたことがあったのに、
<補足:
外国人「日本の昭和天皇は海洋生物学者だった!」>
スーパーマンのテレビ番組(アニメ版?)がお好きで
よく観られていたらしいことも初めて知りましたよ。
ま、でもそういったことを知らないままでいるよりは良かった。
皆さんにも何か発見があったなら幸いです。^^
みんな!オラに力をわけてくれ!!
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50年代のデザインがクールに見える不思議。懐かしさだけじゃない何かがある気がする・・・
ゲートのコミカライズ5巻がもう直ぐ出るよー。
チェックしたい作品が多過ぎておっつかんなぁ。
雛菊さんのマウスパッドがもうダメだ。数年使い倒したから・・・
本格的に涼しいというか朝晩が
寒くなってきた。
ずっとTシャツ一枚で過ごせればコスト的に助かるのに。(^_^;
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1950年代の復刻デザイン!コカコーラ レッド クーラーボックス◆
ゲート 自衛隊彼の地にて、斯く戦えり 5◆
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車両が国鉄101系なので
と思って念のためググったら101系(当初の名前は90系)って57年には登場してたのね
当時の最新鋭車ですな