元ネタ
小野アンナ記念会、
日瑞関係のページ、
nytimes.com、その他
2020年は、諏訪根自子(すわねじこ)生誕100周年!
ビックリするぐらいゼーンゼン話題になってませんが、
そんな世間は完全スルーして当ブログでは記念更新するよー。
本当は彼女の誕生日1月23日にやりたかったんですが、
その頃は地下帝国でトロッコ押してたんで無理だったのデス。
で、諏訪根自子って誰や?
という人が大勢いるでしょうから、まずはそこからですよね。
ちょっと長くなりますけど、お願いだから最後まで読んで下さい。
根自子さんの人生にはそれだけの価値とドラマがありますから。
1914年初夏、小野俊一は海を渡りシベリア鉄道でドイツを目指した。
マールブルク大学へ留学するのだ。
しかし、時代とタイミングが最悪だった。
俊一がシベリアを旅してモスクワに到着した正にその日・・・
1914年7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告し、第一次大戦が勃発する。
ロシア帝国が二日後の30日に総動員を発令すると、
ドイツ帝国も待ってましたとその二日後の8月1日にロシアへ宣戦布告をする。
ロシア国内は一気に戦争ムード一色に包まれてゆく。
当然、ロシアからドイツへの交通は遮断された。
呆然とする俊一はマールブルク大学を諦め、
帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクで己の進路を変えた。
ピョートル大帝が1724年に創立したペテルブルク大学への入学を決意。
その首都は、ドイツ風のブルクの響きが忌避されてペトログラードと改名される。
必然的にペテルブルク大学もペトログラード大学へとまもなく改められていく。
そんな戦乱がしばらく続いた最中、俊一は一人の女性と出逢った。
アンナ・ディミトリエヴナ・ブブノワ。

俊一より二つ年上のヴァイオリニストだった。
地方貴族の母から英才教育を与えられた三姉妹の三女であるアンナは、
ロシア語、ドイツ語、フランス語を話し、高等音楽院を卒業した美女だ。
才色兼備のアンナと交際を始めた俊一は、ブブノワ家をよく訪れ、
夫(アンナの父親)を亡くして沈んでいる家族を慰め元気づけた。
そうして愛し合うようになった二人はやがて結婚を意識する。
しかし、結ばれた二人とは対照的にロシアは大荒れに荒れていた。
1917年、継続する大戦に加え二度の革命がロシアで起きたのだ。
約200年続いた帝政ロシアは消滅し、ロシア臨時政府が樹立していた。
他国同様に、日本からも自国民に対し帰国指示が出される。
俊一は小野家の長男で実家への責任もあり帰国するしかない。
一方アンナも俊一と別れたくないが、祖国と家族を捨てたくもない・・・
俊一の帰国ギリギリまで悩んだアンナはついに決心する。
1918年2月24日、二人は教会で結婚式を挙げるとそのままシベリア鉄道に乗りペトログラードを立つ。家族にはこのことを道中で書いた手紙で知らせた。
こうして革命下の混乱から逃げるように俊一とアンナは大日本帝国へ。
二人はまるで駆け落ち同然に産まれたばかりのロシア共和国を後にした。
2020年は、レーニン生誕150周年
(ペトログラードは彼が没した1924年にまた改名されレニングラードに)
俊一は東京の家族にアンナのことをあえて全く伝えていなかった。
完全に事後承諾を狙ったのだ。
父母と弟妹は初めて会うロシア人女性に最初は戸惑うが、アンナは持ち前の美貌と知性と気品、そして何より「小野アンナ」と名乗り、小野家の嫁として努力し続けることで直ぐに受け入れられた。
翌1919年には待望の長男誕生。俊太郎と名付けられる。
俊一とアンナは俊太郎を伴い小野家の近くの家へ引っ越した。
1922年にはアンナの姉ワルワーラが母を連れだって日本へ移住。
画家のワルワーラはアンナを通じて二科展に出品し好評を得ていたし、
母も孫の俊太郎の顔が見たくて仕方なかったのだ。
そうして彼女たちも俊一やアンナと一緒に暮らし始めた。
正教徒のアンナは東京でニコライ堂に通う内に、
子供たちにヴァイオリンを教えようと思い立ち実行に移す。
その名も音楽教室「ルリロ」。
揺りかごを意味するエスペラントだ。
後年この揺りかごで育った日本の子供たちが世界へ羽ばたいていくことになり、
その中でも筆頭格の一人がまもなくアンナの元へ訪れようとしているのだった・・・
1923年、アンナ門下の中島田鶴子の元へひとりの女の子が弟子入りする。
僅か3歳の諏訪根自子(すわねじこ)だった。
1年後、才能を認められた根自子はアンナの直弟子となる。
豊島区目白から隣の文京区小石川まで母親と通いアンナの指導を受け続けたことで、根自子のヴァイオリンの腕はメキメキと上達していく。
後にアンナは当時のことを振り返りこう語っている。
「根自子さんは実に熱心で、雨が降る日も風の日も、せっせと通われ、休まれた記憶は皆無といってよいくらいでした。いまだに、あの小さなゴム長靴を履いて、洋傘にヴァイオリンを堤げた根自子さんの姿は忘れられません。ビショビショになって、寒そうで可哀想やら、可愛いやら、涙ぐみそうになるときもありました。」
(小野アンナ記念会編『回想の小野アンナ』より)
こうして根自子は、6歳の頃には既に人に噂されるほどになり、
新聞にも書かれ雑誌記者までもしばしば姿を見せるようになっていた。
母の滝(瀧/たき)はそれらの取材を原則として断り、
ラジオ出演などもなるべく辞退していた。
しかし、根自子の才能はまだ粗削りながらも聴くものを魅了し隠しきれない。
いずれは、自らが望んで表舞台に立つことになるだろう。
ただ、その時期は母娘が想像したよりもずっと早くやって来る。
1927年11月、一条公爵家の園遊会の余興として見事な演奏を披露。
まだ7歳でしかない根自子は耳の肥えた来賓たちを驚かせた。
1929年にはアンナ門下生の発表会に9歳で出演しさらに注目を集めた。
そして1930年、10歳になった根自子に転機が訪れる。
ロシアの高名ヴァイオリニストであるジンバリストが9月26日から5日間の来日公演で宿泊していた帝国ホテルにアンナが根自子を伴い、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の演奏を聴いてもらうことができた。しかも絶賛されたうえに欧州留学まで勧められた。
「早くヨーロッパにでも行って先生についてはどうか? 自分も必ず年に二度づつその地に立ち寄って面倒を見るから」と激励してくれたのだ。
自信を深めた根自子は、10月15日、神田の基督青年会(現東京キリスト教青年会会館)でのアンナ門下生の発表会でもメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を弾いた。
これは相当の反響を呼んで、新聞の社会面でも大きく取り上げられ、
才能だけでなく美貌も発揮され始めた根自子の写真入り記事が世間を賑わせた。
しかしこの頃を境に小野アンナの門下を一時離れねばならない事情が起こる。
その複雑で微妙ないきさつの詳細は語られていない。
ただ、アンナと根自子の間には親子以上に深い師弟関係が結ばれていた。
根自子自身ではなく、その周囲で問題が発生したのだろう。
小野アンナの元を離れた根自子は、同じくロシア人のモギレフスキーに師事する。
モギレフスキーはこの年に再来日して帝国音楽学校の教師となっていたが、
日本ではこの時まだ弟子をとっておらず根自子と吉野章だけ特別に無報酬で指導した。
「天才という言葉があります。彼女の場合、これは少しも誇張された言葉ではありません」
モギレフスキーは根自子をそう称したという。
アンナ同様にモギレフスキーもまたロシア革命の混乱から逃れるため日本へ来ており、
根自子の母滝は運命のようなものを感じたという。
1931年、11歳の誕生日を迎えた翌日1月24日の朝日新聞が、
「ヴァイオリンの天才少女現る、ジムバリストを驚かした目白の根自子ちゃん」
という派手な見出しと写真入りで報道した。
(
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幼い容姿に鋭い目つきと引き締まった口元のギャップが素晴らしい一枚。
袂を分かった筈のアンナが一緒について行くとまで言ったことを載せているので、やはり二人の間に確執はなく他者に問題があったのだと窺える。
また、根自子は「小学四年生で12歳」とあるが、
当時の年齢は数え年であることと、
レッスンの為に小学校入学を1年遅らせたからだ。
ヴァイオリンを始めたきっかけが数え5歳(満4歳)の時に父と行ったジンバリストの公演になっているが、かねてから根自子の音感の良さに感心していた母(学生時代は声楽家を目指していた)が隣家のヴァイオリン練習を聴きその師が小野アンナと知って門を叩いたという話もある。恐らくその両方なのだろうが、この父母での認識の違いは後の不幸を暗示していた。
1932年4月9日、根自子が正式にデビューする瞬間がやって来た。
日本青年館で初リサイタルを開催。
まだ小学五年生ながらセーラー服を着ての独演会だ。
この時、観客席にはヴァイオリン界の女王ルネ・シュメーもいた。
「ヨーロッパへ行っても、この歳でこれだけの子はいません」
このフランス人著名ヴァイオリニストが高評価を与えたようにデビューは大成功。
12歳の根自子はその実力から「神童」と呼ばれ音楽界、いや時代の寵児となった。
セーラー服姿でヴァイオリンを抱える根自子のブロマイド写真も発売されている。
恐らくこれがそのブロマイドだと思われる。
中央の文字は「Nejiko Suwa」というサインではないかと。
12歳なのにもうスター性というかヒロイン・オーラが出てるような・・・
これ今も持ってる人はお宝です。家宝レベルですよ。
どうぞ、大切になさってください。(某鑑定団員)
1933年2月18日、アンナの義弟にあたる小野英輔に娘が生まれる。
小野家三男の長女となるその赤ちゃんは、洋子と命名された。
長じて洋子は、伯母のアンナ&ワルワーラと非常に仲良くなり、アンナから音楽、ワルワーラから絵画を学んだ。その後、父の住むアメリカで大学に通い、二度の結婚と離婚を経験してからイギリスへ渡り、ロンドンで一人のミュージシャンと出逢い三度目の結婚をするのだが、それはまた別の機会に取り上げる。
10月には今度は不幸がアンナを襲った。
長男の俊太郎が腹膜炎で亡くなってしまったのだ。享年14歳。
アンナが直接指導し続けたたこともあり、俊太郎は12歳でオーケストラの第一ヴァイオリンを務めるほどの腕前でラジオにも演奏出演していたもう一人の神童だった。アンナの悲しみは深く、後に俊一と離婚することになる。
そして根自子にも思ってもみない所から不幸が訪れていた。
ソリストとして招待され大阪朝日会館で山田耕筰指揮のもとブルッフのヴァイオリン協奏曲をオーケストラと初共演し関西デビューを果たしたことと、日本コロンビアで初めてレコード(SP版)に録音したことは吉事だったが・・・
まさかの「家出事件」が起こってしまう。
この時、根自子は母の滝に連れられて平塚へ行っていたようだ。
12月27日にはその騒動が新聞で報じられてしまった。
記者たちは父の順次郎が根自子に暴力をふるうと書きたてていたが、
実際は順次郎の浮気による夫婦不和が原因であったという。
この件に師のモギレフスキーは難色を示した。
家族関係が修復するまで、指導はできないと申し渡したのだ。
とばっちりを受けた格好の根自子の境遇を見かねて手を差し伸べたのは、
後に世界的に普及した「スズキ・メソード」の創始者となる鈴木鎮一だった。
(モギレフスキーは鈴木が設立した帝国音楽学校の同僚であり師でもあった)
鈴木は師を失った根自子にレッスンをするだけでなく、
順次郎と別居するための家の世話までしたという。
結局、夫婦仲は修復されることはなく順次郎と滝は離婚してしまった。
小説家の里見とんはこの家出事件をモデルに翌年「荊棘の冠」を発表するが、
皮肉にもその反響で根自子の名はさらに知名度を上げることになる。
既にアイドルだったが、この事件で同情票まで加わり人気に拍車をかけたのだ。
翌1934年4月、14歳になっていた根自子は家庭内問題(リウマチも?)で中止されていたレッスンをモギレフスキーのもとで再開。日本コロンビアで2回目のレコーディング。
12月5日の都新聞(現東京新聞)にはサラッと凄い情報の記事が載っていた。
(
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「家庭の問題でひどく気をくさらしていたが、それも解消」
「恩師モギレフスキーも驚く程の上達ぶり」
「徳川義親侯、近衛秀麿、守屋東、コロンビア會社等の後援」
「来年にはベルギー、ブリュッセルに三カ年の留学をすることに決定したが」
「その前には盛大なお別れ音楽会を開くそうである」
この時点で既に根自子のベルギー留学が決定していた!
しかも、この記事は久々のラジオ生出演(午後8時から)を告げるものであって、
欧州留学が決定したという大ニュースを報じてるわけではない。
それ自体はもっと前に決まっていたかのように見受けられる。
ちょっと早すぎはしないだろうか?
根自子はこの年の4月に練習を再開したばかりなのだ。
さらにベルギー国王の承諾や外務省が動いて国費での留学なのにこのスピード感。
まるで関係者たちが全力で根自子を早く遠くへ送ろうとしてるように映る。
もっと踏み込んで言えば、早く家族から引き離そうとしてるようにも思える。
家族のトラブルで稀有な才能が潰されてしまわないようにと。
ベルギー留学の後援者の一人、徳川義親侯爵(当時)を扱った小田部雄次の著書「
徳川義親の十五年戦争」には、こんな記述があるようだ。
1933年には、鈴木鎮一を介して、有島生馬から逃れるため家出をした諏訪根自子とその母を助け、所三男の家に根自子を預からせ、1936年にフランスに留学させた。
ベルギー留学がフランスになってるのは措くとして、
たしか家出の原因は父の浮気による両親の不和だったはず。
諏訪家の近所の病院で、院長が看護婦と駆け落ちしてしまい、
残された院長夫人と根自子の父順次郎が不倫したのが発端とも言われている。
それがどうして、有島生馬から逃げるためになっているのだろう?
有島生馬は白樺派の画家、兄で小説家の有島武郎と共に順次郎と交友がある。
そして、家出事件をモデルに「荊棘の冠」を書いた里見とんは生馬の弟だった・・・
ピースが足りないので家出事件の真相は分からず憶測でしかないが、
根自子の周辺は想像以上にきな臭くなっていたのかもしれない。
ともかく、1934年に根自子のベルギー留学が決定された。
どんな事情によるものかは定かではないが多くの実力者が手を回し即決で。
ただ、逆に言えば、実力者たちを動かすだけの才能と実力と人望が根自子にあったのだ。
1935年、後援者の近衛秀麿の配慮により日本コロンビアで3回目のレコーディング。
上の都新聞の報道ではこの年にベルギー留学するはずだが、来年にずれ込んだ模様。
1936年1月21日、大阪で告別演奏会が開催される。
(東京では朝日新聞主催による告別演奏会が日比谷公会堂で開かれ人が殺到した)
1月23日、16歳の誕生日に根自子は神戸港から日本郵船の豪華客船、鹿島丸で船出。
師のモギレフスキーは出発の間際まで熱心に指導したという。
(鹿島丸から手を振る根自子)
ここまでが、日本での天才美少女ヴァイオリニスト時代です。
しかし、天才と言葉で言われてもどれぐらい凄かったのかピンとこないでしょうから、
この少女時代にレコーディングされたものを1曲だけ紹介しておきます。
迫力が伝わる様にちょっぴり大きめの音でどうぞ。
曲名:ペルペテウム・モビール、作曲:リース、演奏: 諏訪根自子
これが1933年の人生初レコーディングですよ。
しかも13歳での。
さらに当時は、編集なんてできないアナログ一発撮りですからね。
言ってみればライブ音源みたいなものですよ。
演奏を生で聴いた外国人の名ヴァイオリニストたちが驚いたのもうなずける。
では、彼女の凄さを分かってもらったところで話を続けます。
以下より、欧州留学時代に移ります。
ベルギーではブリュッセル音楽院に留学し、
宮廷ヴァイオリニストのエミール・ショーモンに師事。
およそ半年後、来栖三郎が家族を伴い駐ベルギー特命全権大使として到着。
来栖一家の次女ピア(輝/てる)と根自子は直ぐに親密になり、
週末になると来栖一家のいる大使館へ泊りに行った。
長女ジェイとピアの三人でワッフルを食べに行ったりもしたが、
乗馬やテニスは誘われても根自子はいつも断った。
「私はヴァイオリニストだから手が大事なんです」
そう拒んでは、毎日4~5時間の自主練習も欠かさず腕を磨き続けていた。
そんな留学生活を送っていた翌年、日本とそして根自子にも慶事が訪れる。
1937年4月に朝日新聞社の神風号(カミカゼ号、九七式司令部偵察機)が、
欧亜連絡飛行を94時間17分57秒という国際記録を打ち立てて成功。
当時、アジアと欧州間を100時間以内で飛行するという懸賞金付きの競争があり、
フランスが順風のパリ-東京間の飛行を何度も挑戦しては失敗しているなか、
逆風で距離も長い東京-ロンドン間で成功させるという正に空前の快挙だった。
(ロンドンのクロイドン飛行場に降り立つ神風号を世界中のメディアと観衆が熱狂的に迎えた)
神風号の飯沼正明操縦士と塚越賢爾機関士は、英国行きの名目であったジョージ6世の戴冠式が行われる5月12日までまだ間があるので他国へ親善飛行をしている。最初に訪れたのがベルギー。4月16日にブリュッセルのハーレン飛行場に神風号は舞い降りた。
その際、飯沼・塚越両氏を出迎える栄誉を根自子と来栖ピアが与えられたのだ。
その時の感激と興奮を根自子は手記にし朝日新聞が報じている。
「ピヤちゃんと私は花を持って行くので飛行機のすぐそばまで行く。飛行機はあまり大きくはないが、色は水色でとても綺麗だ。ここの大臣や偉い人達は皆来ている、新聞記者や写真班が大変だった。ピヤちゃんは飯沼さん、私は塚越さんに花を上げる。二人ともとても素敵。殊に飯沼さんがとても綺麗。あんな人は一寸見たことがない。日本人は全部来た。ベルギー人も大勢、皆日本の旗を持って出迎えた。こんな嬉しいことはない。それから飛行場のレストランで一寸シャンパンを飲んで大臣や大使が演説をした。それから大使と両勇士は王様のところへ行く。その間私達はそこに休んで待っている。また十二時ベルリンに向けて出発するまで・・・。なにしろ四日間で日本から飛んで来たのだから大したものだ。十一時頃から少し天気が良くなって来たが少し風がある。十一時半頃皆さんが帰って来た。それから天候を調べたり何かして十二時頃出発した。ベルギーとドイツの国境がとてもお天気が悪いので若しかしたら引き返して来るかも知れないそうだ、皆飛行機が見えなくなるまで旗を振っていた。飯沼飛行士はダンゼン素敵だったので、ジロジロ眺めるだけ眺めた。あゝ今日はホントに嬉しかった。」
いつもは無口でストイックな天才ヴァイオリニストなのに、
より偉大なヒーローを迎えたことで普通の17歳の少女に戻れたのか、
このはしゃぎぶりはまるで別人のような印象を受ける。
・・・いや、これが本来の根自子なのかもしれない。
下は神風号の二人を迎えたときの写真。
少し距離を取って来栖大使越しに飯沼を見つめる根自子。
本当にジロジロと眺めていてちょっと微笑ましい。
ちなみに、神風号の偉業達成をロンドンで出迎えたのは後に首相となる吉田茂駐英大使とその娘の和子さん。その和子さんが九州の炭鉱王に嫁いで産んだ長男があの麻生太郎(1940年生まれ)である。麻生氏が留学先にイギリスを選んだのは母の影響があるのかもしれない。
また、朝日のライバル毎日新聞はこの二年後に「ニッポン」号で世界一周飛行を成し遂げるのだが、それはまた別の機会に。
同1937年5月20日、エリザベート皇太后の前で見事な演奏を披露する。
来栖大使夫人アリスに伴われたベルギー王宮の中という圧倒されそうな舞台で王族を前にしても実力を発揮できたのは良い経験になったはずだ。しかし・・・
7月7日、日中戦争が勃発。
11月6日、日独伊防共協定調印。
師のアンナを襲った戦乱が根自子にも少しずつ忍び寄る。
年末が近づくにつれ、根自子はもどかしさを強くしていた。
留学スケジュールが終わろうとしていたのだ。
1934年の新聞報道では3年だったはずの留学期間が、2年に変わっていた。
(出発が遅れた分、短くなったのだろうか?)
「留学を延長したい、可能であれば花形のパリで学びたい」
その頃のパリにはピアニストの原千恵子、画家の藤田嗣治や岡本太郎、俳優の早川雪洲など自分と同じように海外で活躍する日本人が多く生活していたのだ。
それに、ベルギーのブリュッセルはフランス語圏なのもあったろう。
そんな根自子の願いは来栖大使からフランス大使の杉村陽太郎に伝えられた。
ところが、頼みの杉村は胃癌になり帰国してしまう。
そこで落胆する根自子に救いの手を差し伸べたのは、
大倉財閥2代目総帥にして男爵のホテル王・大倉喜七郎だった。
大倉商事のパリ支店に移住の手続きをさせたバロン・オークラは、
自らも根自子の保証人かつスポンサーとなってくれたのだ。
こうして1938年のパリ留学が実現する。
根自子がベルギーのブリュッセルから花の巴里へと旅立ったのは、
奇しくも二年前に日本から船出した日と同じ1月23日。
根自子18歳の誕生日だった。
パリでは、ボリス・カメンスキーに師事し、彼の自宅に下宿する。
カメンスキーもまたアンナやモギレフスキー同様に亡命ロシア人だった。
彼は亡命の際に妻とストラディバリウスのどちらを連れて行くか選択を迫られ、
ストラドを選んだほどの音楽馬鹿である。
パリでは、現ラフマニノフ音楽院で教授となり別の女性と再婚していた。
同1938年3月、ドイツがオーストリアを併合。
これにより音楽の都ウィーンはナチスの手に落ちた。
かの地で愛され眠りについたベートーヴェンを仰ぎ見ながらも目指した根自子は複雑な心境だったに違いないが、欧州ではまだ何者でもない彼女には余計な心配をしている余裕などなかっただろう。
パリでカメンスキーの指導のもと研鑽を続けて1年と数か月。
根自子が欧州の表舞台に立つ日がやって来た。
1939年5月19日、サル・ド・ショパンでリサイタル開催。絶賛される。
恩師カメンスキー夫妻に見守られながら上々のヨーロッパ・デビューを果たした。
根自子この時19歳。
天から与えられた才能をたゆまぬ努力で磨き続ける彼女はまだまだ伸びる余地を残している。ヴァイオリニストとしての将来は希望に満ち、まさに前途洋々。
さぁここから根自子の素晴らしいキャリアが始まる・・・筈だった。
しかし、時代とタイミングが良くなかった。
同1939年8月23日、まさかの独ソ不可侵条約が締結される。そして、
9月1日、第二次世界大戦が勃発。
ドイツがポーランドに侵攻したのを受け、
イギリス、フランスは二日後の9月3日にドイツへ宣戦布告。
パリにいた根自子は何を思ったろう。
ドイツ軍は首都であるパリを目指してくるだろうし、空爆してくるかもしれない。
日本は敵となったドイツの友好国だ。日本人の自分はどんな扱いを受けるのか。
19の未成年で戦禍を体験したこともない彼女はさぞ不安で恐ろしかったはずだ。
ところが、何か月経ってもドイツ・フランス国境地帯で戦端は開かれない。
海上では何度か戦闘が起こってはいるものの地上戦は皆無だった。
後に「まやかし戦争」と呼ばれるほど、不気味な静けさが続いたのだ。
最初は気が気でなかった根自子もこのまま何事もなく終わると夢想したかもしれない。
その希望が打ち砕かれたのは大戦勃発から8か月が過ぎた頃だった。
翌1940年5月10日、ドイツ軍はオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス三国に同時侵攻開始。
その後、フランスの対ドイツ要塞線「マジノライン」を迂回する形でアルデンヌの森からフランスへ侵攻する。
ベルギー方面の英仏連合軍はドイツ軍に包囲されイギリス本土へ撤退(ダンケルク)し、フランス軍にはもうドイツの電撃戦に反抗する戦力が残っていなかった。
5月28日にはベルギーが降伏。
6月10日にはフランスがパリを無防備都市と宣言し放棄した。
要するに、市民を置き去りにしたまま政府が逃げたしたのだ。
同日にイタリアが英仏に対し宣戦布告してきて弱り目に祟り目。
6月14日、ドイツ軍が無抵抗のパリに無血入城。
6月24日、因縁の食堂車の中でドイツ代表とフランス代表は休戦協定に調印した。
9月27日、日本は日独伊三国同盟に署名する。
第一次世界大戦中に、ロシアにいた小野俊一が帰国を指示されたように、
この頃フランスにいた邦人も政府から帰国勧告を受けていた。
画家の藤田嗣治・岡本太郎など大勢の日本人がパリ陥落の前に帰国するなか、
根自子は留まる決断をし、ドイツ軍占領下のパリでもそれは変わらなかった・・・
この不可解なパリへの拘りは何なのだろうか。どうも合点がいかない。
ともかく、根自子のこの決断は間違いなくターニングポイントだった。
この選択が、運命の出逢いと呪いの銘器を彼女にもたらすのだから。
翌1941年、マルセイユで日仏合同演奏会に出演。
パリでジャン・フルネ指揮のコンセール・ラムルーの演奏会に出演。チャイコフスキーの協奏曲を弾きボルドー出身の名ヴァイオリニスト、ジャック・ティボーに賞賛される。
そして、パリを訪れたベルリンの外交官補、大賀小四郎と出逢う。
この後、戦禍の逃避行で苦楽を共にすることになる二人は27年後に結婚する。
この年の第二次引き揚げにも根自子は応じなかった。
本当にこのパリ愛はどこから来るのだろう?
カメンスキー宅でのレッスン生活がそんなに居心地が良かったのか、
それともよほど「帰りたくなかった」のだろうか。日本へは。
もしそうなら、家出事件の原因と傷はよほど深ったことになる。
このパリへの拘りについては後述する。
同1941年6月22日、バルバロッサ作戦開始。
ドイツは独ソ不可侵条約を一方的に破棄しソ連に侵攻する。
ヒトラーは同盟国の日本がロシアの背後をつき東西からの挟み撃ちを望んだろう。
しかし、恐らくドイツの奇襲を想定していたスターリンは4月に日ソ中立条約を締結していた。日本の軍部でもソ連挟撃の意見が出たとは思うが結果的に中立条約を守り実現はしなかった。
ドイツはこのソ連戦が泥沼化したことで徐々に旗色が悪くなっていく・・・
12月8日(日本時間)、日本陸軍マレー作戦開始、日本海軍真珠湾攻撃。
同日、アメリカとイギリスへ宣戦布告。
こうして日本も第二次世界大戦へ突入していった。
パリはいまだ同盟国ドイツ軍の占領下にあるとはいえ、
日本人である根自子へのフランス人からの風当たりは強くなったと推測される。
それでも21歳になっていた彼女はパリを去ろうとはしなかった。
1942年12月、同盟国ドイツの首都ベルリンに移住
これは解せない。
あれだけ固執したパリをなぜ離れたのか?
しかもクリスマスをことさら大事にするフランスに約5年もいながら、
年明けを待たず12月に家を空けて外国に行くというのだから驚きだ。
それほどの何かがベルリンにはあったということになる。
戦禍を逃れた、という訳ではないはずだ。
連合軍によるノルマンディー上陸作戦からのパリ解放は1944年8月なので、
当時のパリはまだ同盟国ドイツの天下で根自子に危険はなかったのだから。
逆に、この時はむしろベルリンの方が危険だった。
ドイツ空軍のロンドン誤爆に端を発したイギリス空軍の市街地空襲が幾度か起きていたのだ。
このベルリン行きの経緯について、萩谷由喜子による諏訪根自子の評伝にこうある。
「ドイツ勢力圏の音楽家たちをベルリンに集めて大規模な音楽祭を開催しようと考えたベルリン市長が、ベルリン滞在中の近衛秀麿を通じて根自子をベルリンに招いたのだ」
「根自子としては、今やカメンスキーの家がわが家同然だったので、パリを離れる気持ちはなく、パリを占領しているドイツ軍にも良い感情を持っていなかったから、その本拠地ベルリンへ行く事は気が進まなかった。だが、ベルリンからの誘いが重なる。そこで根自子は当初、楽器を口実に招きを断っていた。良い楽器を持っておりませんので。」
「しかし、再び誘いがかかる。無下にも断りきれず、生活の本拠をカメンスキー宅においたまま、根自子がベルリンに向かったのは1942年12月のことだった。ベルリンでは、舞踏家の邦正美、日銀理事の山本米治らが温かく出迎え、海外生活の長い著名歌手兼女優、田中路子の屋敷へ案内してくれた。」
根自子をベルリンに呼んだのは、近衛秀麿だった。(首相の文麿は異母兄)
前述したように、彼はベルギー留学後援者の一人で、指揮者として有名な人物。
実際、この頃は欧州各地でやたらとオケの指揮をしていたのでドイツにいたのだろう。
その恩義ある近衛の再三にわたる頼みだから断り切れなかったのだろうか?
上の評伝に「生活の本拠をカメンスキー宅においたまま」とあるので、
根自子は音楽祭に出演したら直ぐパリへ戻ってくるつもりだったのかもしれない。
しかし、現実はそうならなかった・・・
ドイツの首都ベルリンに到着した根自子だったが、
訪独の目的だった音楽祭は開催されなかったという。
ユダヤ人演奏家を庇護・援助し続けアメリカとも人脈のあった近衛秀麿は、
駐独大使で熱烈なヒトラー信奉者だった大島浩陸軍中将とは当然ながら対立していた。
これにより日本大使館の横やりが入り音楽祭は企画倒れになったようだ。
では、ベルリンで宙ぶらりんにされた根自子はその後どうなったのか?
実はびっしりと他の予定が組まれていた。
ドイツ国内外での慰問コンサートである。
12月14日、日独協会後援のもとオイローパ・ハウス音楽堂で演奏会。
まずはベルリンデビューを成功させ喝采を博す。
12月15日、日本大使館での独軍傷痍軍人慰問会で演奏。
その時の様子を朝日新聞はこう報じている。
「大島駐独大使は15日午後、独軍傷病兵約200名を招待して、慰問レセプションを催した。大島大使の挨拶に次いで諏訪根自子嬢のヴァイオリン独奏、田中路子夫人の独唱があり、独軍勇士たちは、将軍大使を囲んで、武勇談に花を咲かせた。」
恐らくこの写真はその時に撮影されたものだろう。
隣にはいかにも負傷兵といった眼帯の兵士がいて分かりやすくなっている。
ナチスのプロパガンダ担当ゲッベルスが一枚噛んでそうな気がしなくもない。
その後も他の都市を巡り音楽会、慰問演奏会、ラジオ出演をこなしたようだ。
12月31日の大晦日、大島大使夫妻一行とオペレッタ「こうもり」を観劇。
1943年1月1日の元旦、日本大使館での新年会に参加。
その場で大谷修陸軍少将から先日の奮闘を感謝される。
この件について、深田祐介の著書「美貌なれ昭和」ではこう記述されている。
「ドイツ空軍関係の知人から頼まれ、根自子に慰問演奏会を依頼し、繰り返しアンコールの嵐を呼んで、彼女に”奮闘“してもらったという意味にとれるが」
しかし、日本大使館での慰問会を感謝したと考えて間違いない、
という解釈の方が的を射てると思われる。
こうして新たな年を迎えた根自子は、1943年もドイツで演奏活動を続ける。
ベルリンでの生活拠点も田中路子の自宅から大島夫妻のいる大使館へ移った。
いつからか根自子の肩書は「大島大使夫人(豊子)秘書」となった。
ドイツ兵への慰問会を次々と行い、ヒトラー心酔者の大島とどんどん親密になる。
人々の目には、根自子がナチスに取り込まれたように映りつつあったかもしれない。
そして、そんな印象が決定的になるイベントが目の前に迫っていた・・・
1943年2月22日、ナチス宣伝相ゲッベルス自らが、
ストラディヴァリウスを根自子に手渡し贈呈する。
(
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ある意味、歴史的瞬間の一枚。
複数の人間が写っているが、笑っているのは中央の3人だけだ。
ゲッベルスの左隣の男など、根自子を獲物として狙う鷲のような目で睨んでいる。
(この男については後述するので頭の片隅に入れておいてほしい)
晴れやかな贈呈式だというのにこれはどういうことか。
笑顔の3人も心から笑っているのは23歳になったばかりの根自子だけだろう。
クールでストイックな彼女が本当に嬉しくて思わず頬が緩んでしまったという感じ。
ゲッペルスは半分本気、半分計算で笑顔を見せている。
その二人の間にいる大島大使に至っては、口は開いてるが目は笑っていない。
むしろ、顔上半分は悲しげで暗い表情にすら見える。それは何故か?
この日、この時、この瞬間、
根自子の人生を捻じ曲げてしまった。
その自覚があったから、罪悪感が顔に出てしまっているのではないか。
ゲッベルスからストラディヴァリウスを贈られる。
その意味を一番理解していた日本人は、他ならぬ彼なのだから。
名目は日独友好の懸け橋とでもなっていたのだろうが、
実態はゲッベルスによるプロパガンダに利用されるだけのことだ。
戦争に勝てばまだいい、だが負けた時は・・・
ナチス色に染まった根自子がどうなるか大島は百も承知していた筈だ。
もしもこのストラドがユダヤ人から略奪したものだったなら尚更に。
ここでこのストラド贈呈式の背景を少し振り返っておこう。
そもそもどうして世界的名声を誇る銘器が根自子に贈られることになったのか?
その理由について朝日新聞はこう報じている。
「昨年12月来独以来ベルリンその他各地の音楽会あるいはラジオ、あるいは慰問音楽会においてその天才的演奏により」
これもベルギー留学同様に決定が早すぎないだろうか?
ドイツでの演奏活動は、昨年12月14日から始まったので僅か2か月ほどでしかない。
それだけで天下の銘器を贈呈するという不思議。
ドイツ人にも喉から手が出るほど欲しいという音楽家がたくさんいたのに、
アーリア人至上主義のナチスが同盟国とはいえアジア人にどうして与えるのか。
感謝の意を示すなら、勲章なり金一封なり他に方法はいくらでもあるのに何故・・・
ナチス宣伝相ゲッベルスは一体なにを考えていたのか?
この時の彼の立ち位置を少し考えてみたい。
日本人の多くがナチス高官・ヒトラー側近というと真っ先に思い浮かぶのが彼の名前だが、
そのイメージとは違い、当時のゲッベルスは微妙な存在だったようだ。
贈呈式の約3年半前の1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻し大戦が始まった。
しかし、ゲッベルスは戦争に大反対だった。
彼の理想は戦わずして勝つことだからだ。
「革命には二つの方法がある。機関銃を持つ者には勝てないと敵が認めるまで、敵を掃射し続けるのが一つ。これは安易な方法である。残る一つは精神革命による国家の改造である。この方法なら敵を破壊することなく味方に組み入れることができる。最高の勝利は敵の殲滅ではなく、敵に勝者たる我々の賛歌を歌わせることなのだ」
宣伝省が設立されその大臣に任命された彼はその目的を上のように説いている。
しかし、その理念も虚しく物理的な戦闘が始まってしまった。
そうなるともう主役は武官たちになってしまう。
文官であるゲッベルスは脇役に追いやられ裏方の仕事を細々とやるしかない。
ヒトラーの側近ナンバー1を自負していたが、その総統は他の側近を頼りにし冷たい。
それも当然だろう、武官たちは次々と戦果をあげ欧州をナチスの天下にしたのだから。
だが、それがゲッベルスには耐えられない。
「とにかく何か手を打たなくては・・・どんなことでも・・・一つでも多く・・・」
次に、この時期の根自子の不可解な行動の理由を考えてみたい。
訪独の目的だったベルリン市長と近衛秀麿主宰の音楽祭は大島大使に潰された。
それならもうドイツに用はない筈でさっさと大好きなパリに帰ればよかったのだが、(恐らく大島の)出演依頼に唯々諾々と従い、嫌っていたはずのドイツ兵慰問演奏会や音楽会を各地を回って行いラジオにも出演する。
嫌な見方をすれば、恩義のある近衛を裏切るような行為だ。
実際、これが原因で近衛は根自子から離れていく。
どうもこれは根自子らしくない。これまでの行動原理から乖離している。
らしくないと言えば、そもそもあれだけ執着したパリをなぜ離れたのか?
これまでどんな事が起ころうと、政府から退避勧告が出ようとも居続けた。
ナチス占領下で食料事情が悪化し援助も途絶え困窮したがそれも耐えた。
世話になった近衛から再三に渡って訪独を頼まれても断り続けていた。
ただ、その時に行けない理由として伝えたのがあの言葉だった。
「良い楽器を持っておりませんので」
これは断る口実だったのだろうが、恐らく本音でもあっただろう。
ヴァイオリニストとして誰もが認める成功を成し遂げようとしていた根自子は、
才能と実力と環境、ついでに美貌も持っていたが一つだけ欠けている物があった。
それは、素晴らしい音色を奏でるヴァイオリン。いわゆる銘器だ。
磨き続けた技術と常人より遥かに優れた耳を持っていただけに、
銘器ストラディバリウスは根自子も喉から手が出るほど欲しかったはずだ。
たとえ、恩人を裏切るようなことになっても・・・
たとえ、故郷日本よりも愛着のあるパリを離れることになっても・・・
「それでも私は、ヴァイオリニストとして頂きを目指さなければ!」
という感じで、あの写真に至るゲッベルスと根自子の思惑を推測してみたが、
これに大島大使と近衛秀麿の対立を加味すると一つの仮説が出来上がる。
いや、自分にはこれが事実だとしか考えられない。
最初からストラド贈呈ありきの訪独だったのだ。
大島は反目する近衛が根自子にベルリン音楽祭の出演依頼を出すも、
良い楽器を持ってないからと何度も断れているのを知った。
そして一計を案じてゲッベルスに打診する。
ナチスの中で存在感が薄れ危機感を持っていたゲッペルスはそれに乗った。
己の保身のためだけはない。
ドイツはナポレオンよろしくロシアに足を取られ戦況がどんどん悪化していた。
相対的に同盟国日本の重要性は増し、二国の関係強化は国益に叶う。
名器とはいえ、楽器一つならコストもタダみたいなものだ。
日本人に慰問演奏会を行わせれば、兵士たちは音楽で癒されるだけでなく、
日本という同盟国の存在を思い出し勇気づけられるはずだ。
ついでにストラドを贈った私の存在も思い出してくれるだろう。
無論そのように私が宣伝するからだがな。
うむ、悪い話ではない。むしろ名案ではないか。よし早速やらせよう。
そしてやるからには必ず成功させる。今の私に失敗は致命傷になりうる・・・
ゲッベルスの了承を得た大島は、根自子と交渉する。
ドイツに来て演奏会をしてくれさえすれば、ストラドを贈呈しますよと。
銘器ストラディバリウスの誘惑は強烈だった。
師のカメンスキーでさえ妻を捨ててストラドを取ったほどだ。
これから名を上げねばならない22歳の根自子にどうして断れるだろう。
それまでの根自子の人生を思えば無理だったはずだし誰もそれを責められない。
こうして、あの写真に至るまでの計画が実行段階へと移っていった・・・
根自子訪独の経緯は大筋でこのような流れだったのだと思う。
そう考えれば、ドイツ入りしてからの不可解な根自子の行動も矛盾がなくなる。
最初から計画通り、事前に伝えられて承諾していたので、
第二の故郷パリへ帰ろうとせずに黙々とドイツ国内外で演奏活動を続けたのだ。
全てはストラディバリウスのために。
その念願のストラドをついに手に入れた根自子は、この後どうしたのか?
ストラド贈呈の理由は、「それまでの功績に報いる」となっていた。
それが本当なら、直ぐに我が家同然のパリに帰っても誰も文句は言えないはずだ。
しかし、根自子はそのままベルリンに残った。
そこへ贈呈式から十日も立たない内に災厄が訪れることになる。
同1943年3月1日、ベルリン大空襲。
500名を超す市民がイギリス空軍の爆撃により犠牲になった。
ゲッベルスは日記にこう書き残している。
「ドイツの首都がこれまで経験したことがない、最も酷い空襲である」
同月の27日と29日の夜にもベルリンは空襲された。
この時は幸い大きな被害を受けなかったものの、
さすがにヴァイオリン一筋で世事に疎い根自子でも気づいたはずだ。
ここベルリンは本当に危険な場所だということを。
パリでは支配者の如く振舞っていた無敵のドイツ軍が実は崩れかかっていることを。
だがそれでも根自子はパリに帰らない。
本来なら理解に苦しむところだが、ストラド贈呈の対価として一定期間ドイツのために慰問演奏会などを行うという約束が交わされていたのなら筋が通る。
だからその後も各地で演奏活動をさせられたのだろう。
しかし、当の根自子本人は嫌がってなかったかもしれない。
むしろ嬉々として演奏会を行っていたのではないか。
あれだけ渇望した銘器をついに自分のものにしたのだ。
その日から憑りつかれたように弾きまくったに違いない。
磨き続けた世界レベルの技術で奏でる銘器ストラディバリウスの音色は、
優れた耳も持っていた根自子にどれほど心地よく響いたことだろう。
もっと弾きたい!
もっとこの銘器を自分の手の延長のように使いこなしたい。
もっと聴かせたい!
もっとこの極上の音色を人に聴かせて喜ばせたい。誇りたい。
もっと成功したい!
もっと名を上げて欧州留学と帰国拒否は間違ってなかったと証明したい。
そんな根自子にとって有力な後援者のいる演奏巡業は願ったり叶ったりだったはずだ。
そう考えると、ストラド贈呈後のベルリン滞在は根自子の意思だった可能性もある。
1942年12月以来、ナチスドイツのために演奏活動を続けること10か月。
ヴァイオリニストとして根自子のキャリアの最初の絶頂期が訪れる。
1943年10月19-20日、ベルリンフィルと共演。
巨匠クナッパーツブッシュの指揮でブラームスの協奏曲を演奏。
世界最高のオーケストラで23歳の根自子はソリストをやり遂げた。
とことん手に馴染ませてきた相棒のストラディバリウスと共に。
当時ベルリンフィルは、日本でも「フルヴェン」の愛称で有名なフルトヴェングラーが常任指揮者だったが、根自子の晴れ舞台には登場しなかった。これは偶然か?
フルヴェンは1934年の「ヒンデミット事件」でゲッベルスと因縁がある。
その際にベルリンフィルを含む全ての役職から追放されたのだ。
しかし、彼が去るとベルリンフィルの技量が落ち込んだことから、イメージ低下を恐れたナチスは、辞任させたフルヴェンを僅か3か月で渋々呼び戻した。(指揮者のみ、他の復職はなし)
ベルリンフィル運営者の肩書も持っていたゲッベルスにしてみれば、
屈辱的な再就任依頼だったことだろう。
その因縁がこの時のフルトヴェングラー不在という形になったのか?
根自子出演は訪独当初からゲッベルスが計画していてフルヴェンを排除した・・・
いや、きっとそうではない。
根自子訪独の見返りにベルリンフィル共演はなかったはずだ。
訪独交渉の時にはゲッペルスはもちろん、大島大使も根自子の実力を知らなかった。
その状況では交渉材料に使えるわけがない。
なにしろ、ナチスが人事に口を出すほど国内外で影響力のあるオケなのだ。
そこへ、ろくに知らない外国人のヴァイオリニストを出す約束など到底できない。
それに根自子を口説くにはストラドだけで十分だったろう。
だから、このベルリンフィルとの共演は来独後の成り行きに違いない。
ドイツに着いてから慰問演奏会、音楽会、ラジオ生演奏を次々と成功させ時に熱狂を呼ぶ。
ゲッベルスも大島も根自子の実力を目の当たりにして驚いたかもしれない。
噂では聞いてたがこんなに凄かったのかと。
2月にストラディバリウスを得た後の根自子の演奏にはさらに感動したはずだ。
特にゲッベルスは宣伝大臣として、帝国文化院とその下部組織である帝国音楽院を従えて行う音楽政策の最高責任者だった。音楽や楽器にもそれなりに精通していたことだろう。
ベルリンフィル共演から2か月後のゲッベルスの日記でもそれは窺える。
「正午、私は大島の招待客となっていた。有名な日本人ヴァイオリニスト諏訪根自子がコンサートを行い、卓越したテクニックと素晴らしい芸術表現でグリーグの曲といくつかの技巧曲の小品を演奏してくれている。少し前に私はこのヴァイオリニストにストラディバリウスをプレゼントした。ところで、私は彼女の演奏で分かったことがある。それは、あの楽器は彼女の手にあれば安心だということだ。」
誰に配慮する必要もない私的な日記にこう書いてあるのだから、
お世辞抜きで根自子の演奏を称賛しストラドに値すると言ってるのだろうし、
それが理解できるだけの音楽に対する造詣と耳を持っていたと推測できる。
そんな本物が分かるゲッベルスと音楽院の幹部たちが根自子を認めたからこそ、
ベルリンフィルとの共演という話が持ち上がったのだろう。
留学同様、きっとここでも根自子の才能と実力と人望が実力者たちを動かしたのだ。
ともかく、ベルリンフィル共演は訪独の最初の予定にはなかったのは間違いないと思う。
あとは、ゲッベルスが因縁のあるフルトヴェングラーの指揮を敬遠したかどうかだが、
それもないと言い切れる。
というのも、フルヴェンの代わりに根自子とオケを指揮したのがクナッパーツブッシュ。
彼もゲッベルスに追放された指揮者なのだ。
クナの場合はフルヴェンよりもっと酷い因縁がある。
彼はよりによってヒトラー総統に嫌われていた。
ナチスはクナのドイツ国内での音楽活動を禁止し、
パスポートを取り上げて国外にも行けなくした。
要するに、強制引退させたのだ。
1936年、47歳という脂が乗り切って体力もまだあるという時期に。
しかも、奥さんと娘を養わないといけないのに。
困り果てたクナは宣伝省に屈辱的なわび状を書いて何とか国外の活動を認めてもらう。
だがウィーンを根拠地にし華々しい活動を続けていたクナにまた災厄が訪れる。
そのオーストリアをドイツが併合したのだ。(1938年3月)
ゲッベルスは、ウィーンフィルなどの楽団から非アーリア人を締め出し始める。
当然、ナチスとその総統から嫌われているクナも微妙な立場になってしまった。
ウィーンフィルはクナに不安を感じてフルヴェンに首席指揮者を依頼し承諾を得る。
しかし、フルヴェンもベルリンフィルの常任指揮者なのでウィーンにずっといられる訳ではない。クナは音楽の都に必要な人材だった。
そこで関係者が相談したのが、帝国音楽院副総裁ハインツ・ドレーヴェス。
ゲッベルスは音楽院総裁のラーベと意見が対立していた。
ラーベはプロの指揮者なので音楽に関してはゲッペルスに分が悪い。
そこでやはりプロの指揮者を懐刀として音楽院に送り込んだのが若きドレーヴェスである。
以後、ゲッベルスという後ろ盾を持つドレーヴェスが音楽院の実質ナンバー1になる。
(嫌気がさした総裁のラーベは辞表を出したが、何故か留意され残されたという)
そういう立場のドレーヴェスがクナッパーツブッシュの件を相談されどうしたか?
なんと、ドイツ国内(バイエルンを除く)でのクナの指揮活動に許可を出した。
ドイツ国内となると、併合されたオーストリアも含まれる。
つまり、ウィーンでも活動して良いというお墨付きを与えてくれたのだ。
これは意外だった。
ゲッベルスに地位と権力を与えられた男が、そのゲッベルスとヒトラー総統の覚えが良くないクナの味方をするとは、下手をしたら自殺行為である。
本当にどうしてクナを擁護したのか。
その理由は分からないが、ドレーヴェスが只者ではなかったのは分かる。
切れ者のゲッベルスを説得してクナの許可を出したのだから。
彼はこと音楽のことなら恩人ゲッベルスにすら盾つくことができる男なのだ。
そのドイツ帝国音楽界に君臨したドレーヴェスはあの場にもいた。
そう、根自子へのストラディバリウス贈呈式だ。
後述するので頭の片隅に入れておいてほしいと書いておいた、あの男である。
(
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ゲッベルスの左隣り、場に相応しくない厳しい顔で根自子を睨む男。
ハインツ・ドレーヴェス、この時37歳。
ゲッベルスが見込んだプロの指揮者にしてドイツ帝国音楽界の最高権力者。
その男が根自子に向ける鋭い視線は何を意味するのか。
この時はまだ、根自子がストラドに相応しいか懐疑的だったのかもしれない。
それとも逆に、もっと先のことを既に考え始めていたのかもしれない・・・
話が少しそれたので本筋に戻ろう。
フルヴェン以上にゲッベルスと因縁がありヒトラーに嫌われてもいるクナが、
根自子のベルリンフィル共演で指揮者を務めた。
つまり、ゲッベルスの私怨・遺恨でフルヴェンが外された訳ではないはずだ。
かなり気になったので、もう少し調べてみると意外な答えが出てきた。
原因はゲッベルスではなくフルトヴェングラーが自ら逃げていたのだ。
根自子との共演をではない。ゲッベルスの映画からだ。
ベルリンフィルのプロパガンダ映画『フィルハーモニカー』への出演依頼を断り、ゲッベルスやヒトラーから怒りを買ったフルヴェンは、ほとぼりが冷めるまで逃げようと1943年6月末から10月末までベルリンから離れていた。
フルヴェンの代わりに映画へ出演させられたのはクナだった。
ちなみに4月のヒトラー生誕記念演奏会を出たくないと「仮病」で回避したフルヴェンの代わりにベルリンフィルを振ったのもクナであり、フルヴェンが逃げてる間ずっとベルリンフィルを振っていたのもクナだ。
故に、10月に根自子が共演したベルリンフィルを振ったのもクナ。
そこには何の不思議も陰謀もない。
ただただ、フルヴェンの我がままに振り回された人たちがいただけである。
(まぁそもそもナチスが音楽家たちを縛ってるのが悪いのだが・・・)
ベルリンフィルとの共演を成功させた根自子だったが、
その興奮も冷めやらぬ内に次の大舞台が迫っていた。
僅か6日後に音楽の都ウィーンで演奏するのだ。
それもグローサー・ムジークフェラインスザール、通称「黄金のホール」で。
ウィーンフィルの本拠地でもあるウィーン楽友協会の大ホールに根自子は挑む。
1943年10月26日、ウィーン交響楽団と共演。
ハンス・ヴァイスバッハ指揮でモーツァルトのヴァイオリン協奏曲を演奏。
ここでも相棒のストラディバリウスと共に成功を収める。
現在でも映画「のだめカンタービレ」のロケ地となるほど有名な場所だが、
当時の楽都の聖地で銘器ストラドを奏で喝采を浴びる気分は如何程だろう。
10月19-20日のベルリンフィル共演から26日のウィーン交響楽団共演。
この1週間が根自子のキャリアとしては絶頂期だった。
きっと本人も夢心地だったのではないか。
単純な嬉しさだけではない。
もっと複雑な気持ちもあったはずだ。
幼い頃からずっと外国人の名演奏家のレッスンを受けさせてもらった。
国民の税金や後援者の出資で留学させてもらった。
家庭内問題があったのに母や弟妹を置いて自分だけ家を出た。
戦争で帰国勧告が出ていたのに政府に従わず欧州に居続けた。
銘器ストラディバリウスのために我が家同然のパリを離れた。
だからこそ絶対に成功しなくてはいけない。
ヴァイオリニストという山の頂点を目指さなければならない。
責任感と使命感。
それは常に根自子の心にあったはずだ。
そのプレッシャーを抱えながら二大オケと共演し切望した成功をついに掴んだ。
これまでの重圧から解き放たれるほどの恍惚と達成感。
黄金のホールで喝采を浴びながら身を震わせる根自子はきっとその瞬間、
日本を旅立って以来で一番の笑顔を見せていたと思う。
背負っていたものが少し軽くなった根自子この時23歳。
かなり長くなってしまったのと、この続きを書く時間的余裕がありませんので、
今回の記事は前編としてここで終了させて頂きます。
100周年記念なので後編はなんとか年内にアップしたいのだけど現時点では何とも。
ほんまコロナさえなければ・・・
さて、この前編では、諏訪根自子さんの前半生というか、人生最高の舞台に立つまでを紹介しましたが、どのように感じて頂けましたでしょうか?
一人でも多く、根自子さんのことを好きになったり、記憶に焼き付けてくれたり、ファンになってさらにご自身で調べたりする人がいてくれたら、管理人も本望です。
ただ、一つだけ注意してください。
上に書いたものは、あくまで管理人の中の諏訪根自子さんです。
複数の書籍とネット情報を参考にして、恐らくこうだったのではないかと組み立てた、
個人的な諏訪根自子像なのです。
ですから、資料の不足や推測の誤りなどで、
史実・現実とかけ離れた部分もあると思います。
それは、根自子さん以外の登場人物も同様です。
その点だけは留意ください。
そんなことわざわざ言われるまでもないと突っ込まれそうですが念のため。
根自子さんの気になるこの後の人生ですが、逆境との闘いになります。
その最たるものは、戦時下ゆえの動乱ですが、音楽家としての最大の試練は、
やはりゲッペルスから贈られたストラディバリウスだったと思います。
戦後、そのストラディバリウスはナチスがユダヤ人から略奪したものだから返還すべきだという批判が根自子さんへ向けられたのです。
その騒ぎが大きくなると、根自子さんのストラディバリウスは偽物だと主張する者も現れ、その説に信憑性を持たせる噂や作り話まで跋扈し始めました。
その騒動は、程度の差こそあれ、根自子さんの存命中ずっと続きました。
ユダヤ人のナチス略奪品追跡家が、根自子さんにストラディバリウスを調べさせてくれと執拗に迫っていたのです。
そして根自子さんはその要求を断り続けました。
その事実から、諏訪根自子はストラディバリウスの秘密を墓場まで持っていった、
そう評する人たちもいます。
ただ、管理人はそれは違うのではないかと思っています。
根自子さんの生き様やストラディバリウスのことを調べている内に、彼女が自分のストラディバリウスについて主張したのかったのはこういうことではなかっただろうかという推測が立ちました。
その結論では、根自子さんが墓場まで持っていったのは秘密ではなく「矜持」です。
その点については、この記事の後編で詳しく語りたい。
いつ書けるか全く目途が立ちませんが・・・
それでは最後に、ネジリスト必読の書籍を紹介させて頂きます。
ネジリストのみならず、日本国民なら一読して欲しいと切に望む本だったりしますが。
諏訪根自子 美貌のヴァイオリニスト その劇的生涯 1920-2012
昨2012年、92歳で亡くなったヴァイオリニストの評伝。 音楽もさることながら、その美貌も評判となった天才美少女。 ヨーロッパへ留学し 日独友好の証として、 ゲッベルスから銘器ストラディヴァリウスを贈られる。 敗戦のドイツを奇跡的に生き延び 敗戦後の日本では全国各地で演奏。 しかし、いつしかステージから姿を消し 長い空白期間の後、 「バッハの無伴奏」のレコードで奇跡の復活。 その劇的な生涯を描く。
よくぞここまで調べてくれましたと最敬礼したくなる入魂の力作。
根自子さんの生涯がこの1冊で網羅できそうなほど詳しく書かれています。
なのでこれだけは是非とも読んでほしい。一人でも多くの方に。
そして令和の世でも、根自子さんのことを語り継いでほしいなと。
その為にも、出版社さんは電子版も出してくれないか。お願いだから。
美貌なれ昭和―諏訪根自子と神風号の男たち
生来の天凛が類稀なるものであっても、それを見出し、育て上げるプロセスがなければ、「天才」なるものは世に現われ得ない。彼女たちが生れた当時の日本で洋楽は一般レベルまで普及していたとは言い難く、またその水準も発展途上にあった。そうした中、諏訪根自子が小野アンナ(1890~1979)やアレクサンドル・モギレフスキー(1885~1953)、井上園子がカテリーナ・トドロヴィッチという世界的レベルの演奏家・音楽教育者と出会えたのは実に僥倖であった
タイトルがまず素晴らしい。
内容もそれに負けず劣らず、昭和を感じさせる文体でグイグイと読ませる面白さ。
ただし、副題にあるようにこの本は、根自子さんと神風号の飯沼・塚越両氏を主軸にしています。
むしろ神風号の方にその軸足がかかってるほどだったり。
とはいえ、神風号自体がとても興味深い偉業達成のサクセスストーリーですし、まだ根自子さんが存命中に書かれた今となっては貴重な本でもあります。
だからこれも是非読んでほしいなあ。そして出版社は復刻と電子版を!
ちなみに、ドラマ化もされてます。再放送プリーズ。
以上の二冊が管理人のオススメとなります。
どちらも読みごたえ満点ですから時間泥棒注意です。
書店等で入手できない際は、図書館を利用するという手もありますよ。
その他の根自子さん関連書籍も以下に紹介しておきますね。
◆
回想の小野アンナ 根自子さんの師であり、日本ヴァイオリン界の恩人でもあるアンナさん追悼本。
アンナさんに近しい人たちからの言葉が集められていて、その中に根自子さんも。
◆
荊棘の冠 根自子さんの家出事件をモチーフに書かれた小説。作者は根自子さんの父に近い人物。
◆
総統のストラディヴァリ 根自子さんがストラディバリウスを贈られた件をベースにした小説。
◆
ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢 ヴァイオリンや銘器について掘り下げた一冊。根自子さんの銘器にも言及がある。
この他にもまだあるかもしれませんが、
管理人が見つけて実際に読んだものがこれになります。
「回想の小野アンナ」を読むと、もっとこの人は日本で知名度高くてもいいのになぁと思わされましたね。NHKあたりが特番作ってくれないものか。オノヨーコさんも交えて。
「ストラディヴァリとグァルネリ」は名前だけは知ってるけど実態は知らないという典型で興味深く読むことができた。ストラディバリウスと最近のヴァイオリンの音色をブラインドで聴き比べる実験というのは過去に何度か行われてるそうだけど、有名な音楽家たちでも当てることはできないんだそうな。ただ、それなのに、根自子さんのコンサートに行った評論家の「あの音がストラディバリウスであるはずがない」という言葉に対して、著者がさすがだと肯定する部分はどこか釈然としないものがあったり。まぁそういう点も含めて考えさせられる名著だと思います。
さて、今回は本当にここまでです。
文字通りまとまりの無い文章に最後まで付き合っていただきありがとうございました。
では、この記事の後編でいつかまたお会い出来ることを願って。See you !
今後は更新通知をツイッターに切り替えたいと考えていますので
RSSをご利用の方はをフォローして頂けると助かります。
根自子さんのファンになってくれた方は拡散お願いします。
話題になれば彼女の人生がドラマや特番、漫画化されるかもと妄想中。(^_^;
欧州留学前の貴重なレコード音源を全て復刻!日本コロムビアに残したSP音源(1933-35)をコンプリート。
根自子さんがストラディバリウスを手にする前、
青春時代の天才粗削り演奏を堪能してください。
個人的にはこういうCDが売れて欲しい。世に残って欲しい。
◆
諏訪根自子の芸術
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読むに値する内容だったから、最後まで読んでしまった
誰も知らんわなぁ~、こんな人がいたなんて
良い物を読ませてくれて、ありがとう